ラマナ・マハルシ(1879~1950)は、C.G.ユングも崇拝した世界的に知られるインドの聖者で、広大な彼のアシュラム(道場)は今もきれいに保管され、世界中から巡礼者が絶えない。
マハルシは「沈黙の聖者」と言われるほど、ほとんど会話をしなかったが、そのわずかな会話の内容が、今も日本でも、書籍として発行され続けている。
マハルシは、少年時代、学校で、黒板に書かれたことを一度見ただけで完全に暗記してしまえたという話があるが、その驚異的な記憶力のおかげで、自分で聖典を持っていなくても、一度見せてもらえば内容を覚えてしまったらしい。
そのマハルシが、14世紀の聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が書いた『聖なる名前の哲学』という、4つの文から成る、日本語の翻訳なら730文字ほどの小冊子を発見すると、それを自ら書き写し、小さな書棚に置いて大切に保管し、度々朗読して聞かせたという。
この話からも、ナーマデーヴァがいかに優れた聖者であるかが分かる。
『聖なる名前の哲学』の全文は書籍『あるがままに』や『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(共にナチュラルスピリット刊)に収められていて、私は、PDFおよび画像にしてスマートフォンに入れている。

サイババの『ナーマスマラナ』(サティヤ・サイ出版教会)によれば、上に述べたナーマデーヴァの教えは、神の名を唱えることであった。
ナーマデーヴァは、サックバーイーという、牛糞(燃料にされる)を作る一般労働者によって神の名を唱えることの重要性を知り、サックバーイーの弟子になったのだという。
サックバーイーは、パーンドゥランガという神を信仰し、その名を常に唱えていた。
パーンドゥランガは、クリシュナ神の別名のようだ。
サックバーイーは、純真無垢な少女であった12歳の時、酷い家に嫁がされ、そこで辛い日々を送っていたが、パーンドゥランガに祈り続けた・・・彼女の場合、パーンドゥランガの名を心で唱え続けたのだと思われる。
それで、サックバーイーは、家を抜け出してパーンドゥランガの聖地パンダルブルに行くことが出来、そこで直接パーンドゥランガに会ったという。
『ナーマスマラナ』の104ページによれば、パーンドゥランガ(クリシュナ)はサックバーイーの姿になって家事を行い、そのスキにサックバーイーは家を出たということだ。
『ナーマスマラナ』に、ナーマデーヴァに関する面白いエピソードがある。
彼が、兄のグニャーナデーヴァと森を歩いていた時のことだ。
喉が渇いた2人に、古井戸が目に入った。
覗いてみると、その井戸の底の方に少し水があった。しかし、桶のようなものはなかった。
すると、グニャーナデーヴァは、鳥に姿を変え、井戸の底に降りて水を飲むことが出来た。
だが、ナーマデーヴァは、
「私の神は私の中におわす。神のところに行かなくても、私には神がそばにおわすことを保証できる」
と言って、座って神の名を唱え始めた。
すると、井戸の水が上昇してきて、ナーマデーヴァは水を飲むことが出来た。
福音書のイエスの奇跡同様、このお話をそのまま受け取っても別に構わないが、なかなかそうもいかないかもしれないので解説すると、この場合の水は神を喩えたものだろう。
グニャーナデーヴァは自分が神のところに行ったが、ナーマデーヴァは、神の名を唱えることで、神を連れて来ることが出来たのである。
サイババは、ナーマデーヴァのようでないといけないと述べた。
ナーマスマラナとは、神の名を唱えることであるが、書籍『ナーマスマラナ』には、念仏はナーマスマラナそのものであると書かれている。
無論、あらゆる神仏の名を唱えることがそうであろう。
祈るとか、信仰するというのは、どういうことか分からない人も多いだろうが、『聖なる名前の哲学』を読めば、ナーマスマラナが最も優れた祈り、あるいは、信仰であると分かるのである。








  
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