しっかりと社会人をやっていたら、「懸案事項」「懸念事項」に苦しんでいるだろう。
とはいえ、本当は、たとえ子供にだって、それらはあり、我々同様、それらは、暗くのし掛かる重い影である。

実際は、「懸案事項」「懸念事項」という四文字熟語があるわけではない。
「懸案」「懸念」に「事項」(一つ一つの事柄)をくっつけただけだ。
それで、「懸案」と「懸念」の意味は、
懸案・・・前から問題になっていながら、まだ解決されていない事柄
懸念・・・気にかかって不安に思うこと
だ。
違いは微妙だが、特に社会人にとっては、聞くと嫌な気分になる言葉だ。
つまり、誰もが、「重い問題」「憂うつな問題」を抱えているのだ。
「お前は悩みがなくていいねえ」なんて言う者がいるが、間違いなく、言われている方は心外だろう。
悩みのない人間はいない。
悩みも適度だと、むしろ良いものである。それが人間を賢く、強くする。
しかし、度を越した・・・つまり、自分の能力でどうにもならない悩みの場合は、深刻になってストレスを溜め、それで病気になることもある。

だが、イエス・キリストは「重荷がある者は、それを私に預けよ」と言った。
ラマナ・マハルシは「神はいかなる重荷にも耐える」と言った。
だが、「そう言われてもねえ」と思う者が多いだろう(笑)。

だが、私は、少し前から、よくこんな体験をしている。
確かに、現実に、懸案事項、懸念事項があり、非常に憂うつに思っていたが、急にそれが消えて、心が軽くなり、安堵感を心ゆくまで味わっている。
だが、その懸案事項、懸念事項が何であったか、分からない場合が多い。むしろ、憶えている方が稀だ。
神様や仏様が背負って下さったのだろうか?
分からないが、おそらくそうだ。

今朝も、こんなことがあった。夢であるが(笑)。
懸案事項、懸念事項の夢だが、惨憺(さんたん)たるものだった。
こんなものだ。
会社で、ある親しい人が、ある見込み客である会社に、その日に営業に行かないといけないが、その人は、忙しくて行けない。
そこで私は、自ら、「私が代わりに行こう」と申し出、その人は、有り難く、それに同意した。
ところが、その日、午後5時半になって私は、その約束を忘れてしまっていたことに気付いて慌てた。
ところが、そもそも、今、5時半だが、何時に行けば良かったのか分からない。あまりに私がいい加減なため、その確認すらしていなかったのだが、午後5時半なら、間違いなく、約束の時刻はとおに過ぎているはずだ。
無責任にもほどがある。さすが私だ(笑)。
とにかく、先方、また、その約束をした親しい社員に連絡をしなくてはいけないが、そのどちらの連絡先も分からない。カバンを探ると、やたら古いガラケーがあるが、それには、どちらの連絡先も入っていない。
万事休す(万策尽きる)である。
そして実は、私自身、私がこの約束を果たさないことで、ある非常に拙いことに巻き込まれてしまうことが分かっていた。
奈落に突き落とされた気分とは、こういうものだと思った。
その時、私は目が覚めたのである。
「ああ、もう問題は消えたのだ」とは思ったが、しばらくは、なかなか実感出来ずに不安が残った。しかし、むしろそのために、それが消えていく快感を味わえた。
そして、ようやく気が楽になり、素晴らしい安堵感に包まれた。
『新世紀ヱヴァンゲリオン』で、葛城ミサトは晩酌でビールをぐっと煽った後、「このために生きているようなものね」と言ったが、そうではなく、今日の私のような、解放感、安堵感を味うために生きているのだと思える。

そして、私は、この安堵感、解放感を、たびたび現実でも味わっているのだ。
どうやってかというと、やはり、神仏に重荷を託しているのだが、そのために何をすれば良いかというと、真言を唱えることによってだ。
最高の真言は、神仏の名である。
それらの神仏の力は無限であり、想像も出来ない。
我々の懸案事項、懸念事項など、あまりに簡単で、子供の遊びですらないだろう。
言い換えれば、神仏と一体になった者にとっては、世間のことは、あまりに簡単なので、子供の遊びのようなもので、自動的に進んでいくのだ。
ラマナ・マハルシも、そんなことを言ったのだと思う。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』(ラマナ・マハルシ述)より~

神に重荷を託す手段は真言である。
他にもやり方はあるし、マハルシも違うやり方を説いたように思うが、最も簡単で、唯一、誰でも出来ることは真言なのである。
例えば、念仏である。
岡田虎二郎が言ったのだと思うが、「念仏を唱えさえすれば、一切の問題が解決し救われる」のである。
荒唐無稽に思えるかもしれないが、そう思う者は試したことがないだけだ。
もちろん、1回や2回唱えただけでは足りないだろう。
だが、神仏の名は、神仏そのものである。
そして、阿弥陀仏の力は無限である。
それなら、むしろ、念仏を唱えれば、どんな問題も解決して当たり前である。
それは、観世音菩薩でも、クリシュナでも同じである。
実際、貧しい労働者が、神の名を唱えると、神が自ら、その者の日常の煩いを片付けてくれるのを目撃した聖者もいる。
そして、どうも、私の問題も解決してくれている。
心からほっとした時、人は本当の感謝を感じ、生きる気になれるのである。








  
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