真言で、現実の問題を解決することについて。
まず、「念仏(これも真言の1つ)を唱えれば、一切の問題は解決し、救われる」・・・これは、直接には、柳田誠二郎(日本航空元社長、日本銀行元副総裁)が言ったのだが、おそらく、彼の師の岡田虎二郎(明治・大正の偉人・啓蒙家)の言葉だと思う。

さて、「一切の問題」の例題は、次のものにする。
超が付く著名な心理学者、河合隼雄の『こころの最終講義』の中に(つまり、河合隼雄の京大での最終講義の中に)こんな話がある。
不登校の息子を持つ父親が、河合隼雄に相談に来て、こんなことを言ったらしい。
「先生、息子が学校に行くスイッチはありませんかね?」
河合隼雄は、これを快く思わなかったのだと思う。
私も、それを読んだ時、不快だったし、誰でもそうだと思う。
だが、皆、スイッチを押したがる。
つまり、問題に向き合おうとしないのだ。
この父親も、息子に向き合う気がなく、向き合わずにスイッチさえ押せば息子が学校に行けば良いと思っている。
父親のそんなところが本当の問題だと思う。
この父親は、息子に向き合わないだけでなく、自分に向き合わないのだ。

この父親の問題を解決するには、どうすれば良いだろう?
もちろん、真言を唱えることだ。
まず、自分が良いと思う真言を選ぶ。
「南無阿弥陀仏」でも「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でも、般若心経の呪文でも、「アジマリカン」でも良い。
だが、真言はスイッチではない。
この父親は、それを期待するだろうが「1回唱えれば、アラ不思議!息子は学校に!」なんてことがあるはずがない。
息子が学校に行くまで真言を唱えれば良い。
そのカラクリはこうだ。
真言は、心を、自分を超えた高次の存在に向ける。
例えば、「南無阿弥陀仏」で言えば、阿弥陀仏という最高の仏・・・それを通し、その本質である無限の知恵と力、宇宙に偏在する霊妙な活力に心を向けることになる。
すると、自分の深い心(魂)と宇宙の魂は、自然の性質として融合する。
そうなれば、宇宙の魂と融合した自分の魂には真の問題が見え、問題は容易く解決する。
どのくらい唱えれば良いかというと、一生唱える気になれば、すぐに解決する・・・真言にはそんなパラドクス(逆説)がある。

実際の心構えとしては、「そのうち何とかなる」と思って、たゆまず真言を唱えることだ。
ただ、こう言うと、「そのうちなんとかなるさー」と、ちゃらちゃらした気分でやる馬鹿がいるものだ。それが、その者の人生に対する心構えなのだ。そんな不真面目な馬鹿には何も出来ない。
真言は、「丁寧に」唱えなければならない。
声になんか出さなくていい。いや、出してはならない。自分の悪い声など周囲には迷惑だ。
心の中で、丁寧に唱えることが大事なのである。

私は、ポパイが嫌いだ。
ポパイのホウレン草はスイッチだ。
「食べればたちまち、まるっと解決」などという馬鹿な心構えや態度を子供に決して持たせてはならない。
あのポパイのホウレン草の食べ方はどうだ?
まさに、スイッチを押すがごとく、犬のように食べている(むしろ犬に失礼だが)。
だが、ポパイがホウレン草を丁寧に食べれば、もはや、ポパイは何もしなくていい。
ホウレン草を育てた自然の全潜在力が味方をするからだ。
同じように、丁寧に真言を唱えることで、その真言が示す高次の力が味方し、問題を解決する。
例えば、「南無観世音菩薩」と唱えれば、『観音経』(『法華経』25章)に書かれた通りに、観世音菩薩が味方し、その絶大な力で問題は解決する。

普段から、たゆまず真言を唱えていれば、一度の真言でいかなる問題も解決する。
法然の念仏だけでなく、1日、6万回、7万回と真言を唱える者が、少し問題に意識を向けて真言を唱えると、奇跡も起こるのである。








  
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