良いサッカー選手になるにはどうしたら良いだろうか?
サッカー強豪国イタリア、スペイン、イングランドなどでは、子供達がなるべく多くサッカーボールに触れるようにしている。
ただし、大人が無理に子供にボールを押し付けるのではなく、子供が自主的に自然にボールに触るようにしているのである。
良い野球のバッターは、少年の時から、バットを方時も手放さないし、良い投手は、やはりいつもボールを持ち歩いていた。
1日中触っていることが大事で、必ずしも、練習しているわけではないが、触っていたら、バットなら自然に振るし、サッカーボールなら自然に蹴るだろう。野球のボールなら、握って細かな感触を確かめたり、放ったり掴んだりして重さを感じるのである。
だが、やはり、「バットを振れ」なんて言うようでは駄目なのである。

良いピアニストは、子供の時からずっと勝手にピアノに触っているが、それは大人になっても変わらない。
ところが、たとえ自主的に触っているように見えても、不自然に追い立てられるようにピアノを弾けば、手を壊したりしてしまう。
良い剣士は、ずっと剣に触っていた。
それは、木刀の場合が普通だろう。
そして、練習の時しか木刀に触れない者は、大した剣士にはなれない。
大人になってもそれを続ければ達人になる。
宮本武蔵は、護身の意味もあったが、大人になっても木刀を常に肌身離さず、それは、風呂に入っている時すらそうで、挙句、木刀の柄に穴を空けて紐を通し(今でいうストラップだ)、手から木刀が離れないようにしていた。これも戦いの中で木刀を落とすことを防ぐためもあるが、やはり、彼にとっては、木刀に常に触れていることが自然だったのだ。

キリストになりたいなら、常に聖書を手にしているし、仏陀になりたいなら、いつも経典と共にあるだろう。
仙人になりたいなら、『老子』や『荘子』、あるいは、その他の仙道や道教の書をいつも持っている。
読むかどうかはともかく、常に手元にあるし、常に手元にあれば、見るべき時に自然に見るだろう。

神通力を備えた修験者は常に般若心経の呪文を唱えていたし(般若心経全体を唱える場合もあるが、重要なのは呪文の部分)、他の真言を知っている場合には、それを唱えていることもあった。
仙人は、常に真言を唱えている。

良いプログラマーは、常にパソコンに触れている。
スマートフォンはどうかというと、あれはプログラミングの道具ではないし、多くの場合は、触っているのではなく、触らされている。
ただ、スマートフォンを持っている目的如何によっては、何か特別な力を持つことはある。例えば、特別な情報収集能力を持ったり、何かでクリエイティブな能力を持ったりである。
小型ノートパソコンがなかった時代には、良いプログラマーは、優れたプログラミングの本を常に持ち歩いていたものだった。これは、今でも有効(むしろ自然)で、優れたプログラマーがいつもプログラミングに関する本を持っていることはよくある。逆に言えば、プログラミングの本をどこにでも持ち歩けば、良いプログラマーになれるのである。あくまで自主的に持てばだが。

人間は何にでもなれるが、それは、上に述べたようであればである。
だが、海外はともかく、日本では、子供が常に触れているべきものを子供から引き離し、それは、子供を真の自己から引き離すことになる。
そして、そんな社会で育った我々は皆、真の自分を忘れてしまっている。
だから、自分が自分でないのである。
人間にとって最も大切なことは、自分が自分であることなのに。

そんなわけで、あなたは今日から、常に触れたいものに触れていなければならない。
特に言えば、神仏になるのであれば、常に心が真言に触れていること・・・つまり、心で真言を唱えることである。
この真言には、優れた呪文や念仏、あるいは、言霊を含むが、これらもまた真言なのである。












  
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