念仏の不思議な話を少しする。
江戸末期から昭和初期にかけ、農民や職人、商人などの間に、妙好人(みょうこうじん)と呼ばれる不思議な人々が現れた。
いや、とりあえず妙好人と呼んでいるだけで、本当に、そのまま「妙に好ましい人」くらいの意味しかない。
実際、妙好人は、ごく普通のただの庶民で、それどころか、まさに、「ど庶民」なのだが、実は、並の人間ではなかった。
悟りを開いた仏陀のような人々なのだが、なぜ、彼らがそうなったのかというと、おそらく、ただ念仏を唱えたのだ。
ほとんどの場合、妙好人は、ただの人間として生き、ただの人間として死ぬが、時として、人々の尊い模範となったり、騒乱が起こった時等には聖者の本性を見せることもあった。
彼らは、本当に仏陀だった。
そして、彼らはただ、念仏を唱えることによって、そうなったとしか思えない。
念仏には、そんな力が確かにあるのである。

ところで、念仏の「南無阿弥陀仏」というのは、純粋な日本語ではない。
「南無」は、ナーマスというサンスクリット語の音写(音だけ真似ること)で、「阿弥陀仏」は、やはりサンスクリット語のアミターバの音写だ。
「南無」は「なむ」と言ったり「なも」と言ったりするが、元々は「ナーマス」なのだから、どちらでも良い。
「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来(アミターバ)に帰依する(ナーマス)」という意味だが、帰依とは、「頼みとして、その力にすがる」という意味で、早い話が、全面的な信頼を意味する。
この意味だけで、念仏は最高最上の真言なのだと思われ、これを唱えて悪くなるはずがない。
イエスだって、神を全面的に信用しろと教えたのだし、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること」の教えといって、神様にまるごと全部まかせろと言ったのである。
ただ、イエスや黒住宗忠は、念仏のように、それを簡単に収める言葉を示さなかったのである。

ところが、念仏は、葬式に使われるようになり、何だか葬式のイメージになってしまった。
それもあって、私は、どちらかというと、阿弥陀如来の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えているが、これも本当は念仏と全く同じである。
そして、この真言が、私にとって、昔から霊験あらたか・・・と言ったら笑われることもあるかもしれないが、全く霊験あらたかで、いつもうまくいっていたのである。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」と「テイゼイ」のところで濁っても良い・・・と言うより、正確なサンスクリット語では「テージェ」であり、それで言えば「テイゼイ」の方が近いが、どちらでも同じである。
さっきも言ったが、私は、念仏も阿弥陀如来真言も全く同じだと思っている。

ところで、阿弥陀如来の根本真言というものがあり、古来、これこそ、最も霊験あらたかと言われてきた。
どんな真言かというと、「アムリタ」という言葉を十回繰り返すもので「十甘露陀羅尼(じゅううかんろだらに)」と言う。
アムリタとは、「甘露(文字通り、甘い露)」という意味で、陀羅尼は真言のことである。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」の「アミリタ」が、正確なサンスクリット語で「アムリタ」なのであり、「アムリタ」という真言もまた「アミリタ」でも構わない。
ところで、アニメ『ツバサクロニクル』の映画である『劇場版ツバサ・クロニクル 鳥カゴの国の姫君』という、わずか35分だが、素晴らしい映画があるのだが、この映画の主題歌が『アムリタ』で、まさに、阿弥陀如来の根本真言と思える素晴らしい曲である。
芸術的音楽家である、かの香織さんが作詞作曲した名曲で、本当にただならぬ聖歌のような歌で、「アムリタ」の意味を完全に表現している。
「アムリタ」を真言とし、十回と言わず、数多く何度でも繰り返し唱えると、かならずや霊験があると思う。
さっきも言ったが、古来から、唱えれば幸せになれると考えられてきた、最も霊験あらたかな真言なのである。
私も、念仏、阿弥陀如来真言と共に、この十甘露陀羅尼「アムリタ」を愛用している。
阿弥陀如来の真言、偉大なりきである。








  
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