インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、ある西洋人が「我々が、オームのような真言を唱えて効果があるのでしょうか?」と尋ねた。
すると、マハラジは「驚くべき効果があるだろう」と答えた。
マハラジが言ったからといって正しいかどうかは分からないが、あれほどの聖者の言うことだから軽視も出来ない。

ただ、1回や2回「オーム」と唱えただけで効果が出るのではない。
また、特別な時刻に特別な場所で唱えることは悪くはないが、真言とは日常的に唱えるものである。
岡田虎二郎は、岡田式静坐法を教えたが、彼が背広で静坐をしたことに深い意味があった。
彼にとって、背広は平服であるから、「普段の格好で」、つまり、「平常に」静坐をしていたことを示しているからだ。
尚、岡田式静坐法とは、つまるところ、姿勢を正し、ゆったりと呼吸をしながら腹に力を入れることで、いつでもどこでも出来ることであり、岡田も彼の弟子達も、そうしていたのだと思う。

法然の念仏がそうであったが、真言も、静坐も、あるいは、中村天風が言う「常に肛門を締める」も、彼らが言うように、本当に起きている間中ずっと出来れば良いのかもしれないが、現実的に、それは不可能である。
そこで、「いつでもやる」を心がければ良いのである。
思い出したら、すぐに心の中で真言を唱えるのである。
これは決して「たまに唱えれば良い」とか「思い出した時に唱えれば良い」と言うのではない。
「1日中、常に唱える」心構えは必要なのだ。
ある気功家は、「1日にトータルで1時間、肛門を引き締めろ」とうまい案を出したが、これは、「常に肛門を締める」心構えがあって初めて達成出来ることだ。

真言さえ唱えていれば、一切の問題が解決し救われる。
それなら、1日中、真言を唱える心構えを持つことは良いことと思われる。

今、世界に、あるいは、我々に闇が襲い掛かっている。
それは、おそらくは誰もが、大なり小なり感じていると思う。
全く感じていないのは、あまりに洗脳されて鈍くなってしまった者達だ。
一方、「闇が迫っている」と人々が感じていることを利用して、人々を騙して利益を得ようとしている者達もいる。それも含めて闇なのである。
これは、まさに、新約聖書・福音書の、特に「ヨハネ黙示録」に書かれ、イエスも常々言っていたことだ。
ついに、その時が来たのかもしれない。
だが、我々は、宗教団体に入る必要もなければ、特定の誰かを崇める必要もない。
ただ、真言を唱えれば良いのである。
ところが、これについても、「私が勧めるこの真言だけを唱えよ」と言う偽物が出てくるので、耳を貸してはならない。
真言に上下優劣はない。
ただ、真言は「古い言葉」であることだけは望ましいのだ。
なぜなら、長い間、多くの人が唱えてきて、今に残る言葉であり、それは、人類共通の超意識に息づき、また、現代人には直接には意味がないことによって、思考が反応しないからだ。
「南無阿弥陀仏」だって、直接には意味を感じないから良いのである。
ひょっとしたら、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀如来に帰依します」という意味だと知っているかもしれないが、これを唱えている時に、そんな意味を考えているわけではない。
私の場合は、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(「テイセイ」は「テイゼイ」でも良い)」を唱えているが、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」でも同じだし、大日如来真言「オン、アビラウンケン」でも良い。
もし、大日如来真言は「オン、バザラダト、バン」だと思うなら、そう唱えれば良い。
実を言うと、私は「オン、アビラウンケン」も「オン、バザラダド、バン(「バザラダド」でも「バザラダト」でも良い)」両方唱える。
また、1つの真言だけを唱えても良いし、いろいろな真言を唱えても構わない。
だが、主に唱える真言は1つに決めておくと良いと思う。

闇が既に襲い掛かってきているかもしれず、危険であることも確かだが、真言があなたを護り、安楽を与えてくれるだろう。
逆に言えば、真言以外で防ぎ、打ち勝つのは難しい。
無論、岡田式静坐法や、中村天風の心身統一法でも、あるいは、他の何でも良い。
しかし、念仏を含む真言が、最も簡単なのであり、私の見解では、普通の人が唯一やれるものだ。無論、特に優れた人には、いろいろなやり方があろうが、私には無理と思われる。








  
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