昨夜も書いたが、 岡田虎二郎(啓蒙家。1872~1920)が、「 念仏を唱えるだけで、一切の問題が解決し救われる」と言ったことは重要なことだと思う。
岡田虎二郎ほどの人物が言ったから・・・という面も確かにあるのだが、それよりも、誰でも知っている事実を、あえて指摘されて、はっとする感じがするのである。
たとえば、「本当に大切なものは目に見えない」というようなものだ。
これは、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中の有名な言葉だが、世間的な考え方に染まった人なら、
「本当に大切なものは目に見えないだって?そんな馬鹿なことがあるかい。目に見えるものが大切に決まってるだろ」
とでも言うだろう。
しかし、人間らしい知性の欠片でも残っている人なら、その言葉の美しさにはっとするのである。

だが、法然は表向きには、念仏は、死んだ後に極楽浄土に生まれるための手段であると説いた。
しかし、それは当然だと思う。
もし、念仏を唱えれば、病気が治るとか、良い結婚相手が見つかるとか、お金が儲かるなどと言ったら、愚か者が、「金が入ってきますように」と思いながら、数分、必死で念仏を唱えた後、数日してお金が入って来ないと、「なんだ!念仏なんて効き目がないじゃないか」と言い出すのである。
岡田虎二郎も法然も、「一回、あるいは、ちょっと念仏を唱えれば、一切の問題が解決し救われる」と言ったのではない。
常住坐臥(じょうじゅうざが)、念仏を唱えよと言ったのである。
常住坐臥(じょうじゅうざが)とは、「日常、座っているときでも寝ているときでも、いつも。ふだんの生活で。四六時中」という意味である。
もちろん、厳密にそんなことが出来るわけではないが、そんな意思を持っていることが大切ということだと思う。

ただ、当然分かることであるが、別に、念仏に呪術のような力があるわけではない。
それに関しては、岡田虎二郎も、虎二郎の意思を受け継ぐ弟子も、あっけらかんと「何でも良い」と言う。
そもそも、虎二郎が四六時中やることを勧めたのは「腹に力を入れる」ことだった。
中村天風の場合は、四六時中、肛門を引き締めよと教えた。
だが、常に腹に力を入れるとか、常に肛門を引き締めるというのは、なかなかやれないのである。
ところが、念仏のように、言葉で唱えることは、比較的やり易い。
そして、別に念仏である必要はなく、短く、リズムがあり、敬虔さ、高貴さ、生命力のある言葉が良い。
それで言えば、念仏もそうなのだが、仏教の真言は、敬って仏を褒め称える言葉であり、活気やリズムがあり、そして、高貴なサンスクリット語を元にしていることから、唱える言葉として理想的である。
沢山ある真言から、好きなものを選べばさらに良い。
その際、「私の家は真言宗だから大日如来の真言が良いだろうか」とか「浄土真宗の家だから、やはり念仏かな」といったことは、考える必要がない。
葬式の時などは、周囲に合わせておけば良いが、自分が常に唱える真言は、自分で選ぶと良い。
どれを選ぼうが同じなのである。その意味では「家が浄土宗なので念仏を」でも全く構わない。

私の場合、四六時中どころか、本当にたまに真言を唱えただけであった。
だが、たまには唱えていたのである。
それでも、驚くべき効果があり、奇跡としか思えないことが数多く起こり、いつも良い想いばかりさせてもらってきた。
こう言うと、「じゃあ、たまにで良いのですね(笑)」と反応する者が、おそらくいることが残念なのである。
そういった、ひねた、薄汚れた、下種な、悪霊に憑りつかれた心を持った者が多く、そのままでは、そんな者達は、惨めな死に方をするしかない。
だが、そんな者達でも、真言を唱え続ければ救われるのである。
法然や親鸞が、並々ならぬ苦心をしたのは、そんな者達に念仏を唱えさせることであった。

あるヤクザ映画で、高位のヤクザの年配の妻が、「神仏に手を合わせる気持ちがなくなったら終わりですよ」と言ったのを、私は憶えている。
逆に、それを忘れない限り、神仏は見捨てない。
私は、人間的に低レベルなため、結果としては、たまにであったが、どこかで、「常に」唱える気があったのだと思う。
しかし、常に、腹に力を入れるとか、肛門を引き締める気には、なかなかなれないと思う。
そんなわけで、「真言を唱えるだけで、一切の問題が解決し救われる」のである。








  
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