真言を唱えている人間がいかに優れているかを示そうと思う。
例えば、高校生を例に考えよう。
まず、最も劣悪な高校生とは、どんな高校生だろう?
それは、奇声を上げる者、喚き騒ぐ者、意味のないおしゃべりを大声でずっとしている者・・・等である。
こんな者達は、高校生とはいえ、本当は、世の中に在ってはならない。
一方、優れた高校生とは、どのような者だろう。
確かに、一概に言えるわけではないだろうが、あり得ないほど優れた・・・と言うなら、心の中で優れた真言をずっと唱えている者である。
こんな高校生など滅多に居ないだろうが、もし居れば、貴重な存在であり、世の宝であり、若くてもリーダーである。
このことは、人間に本来備わった悟性による直観で正しいと感じる。

大人になっても奇声を上げ、喚き回る者は、あくまで神仏の慈悲によってだが、苦しみが与えられる。しかし、それでも変化がなければ、何らかの形で世から消えるしかない。
幸い、あまりに酷いレベルでないのなら、そこそこの苦しみが長く続けられるが、そうではなく、度を超していれば、極度の苦しみを与えることで、なんとか変化させようという力が働くだろう。
苦しみを終わらせたければ、真言を唱えれば良いのだが、なかなか、そのような縁に巡り合わない。
一方、静かに心で真言を唱え続ける者には、知恵が与えられ、知恵があるがゆえに安楽である。
ただし、特に知恵がある者の中には、運命によって、あえて苦しみを選び、世界や人々に貢献する者もいるのである。
だが、その運命になければ、世に出ることはない。

よって、僧侶や、それに相当する指導者であれば声で、そうでなければ、心で真言を数多く唱えることが、知恵を得るための、そして、結果として安楽を得るための、最も易しい方法なのである。
真言がなぜ効くのかの根拠は、ヒンズー教やマニ教、あるいは、古代仏教や、その他の宗教、密教、秘教の教えにあるが、調べてみたが難解なので、特に関心のある方のみ研究すれば良いと思う。
あるいは、現代科学の延長として、パイオニアとして、真言の力の解明を行うことも考えられるが、まだほとんど成果は出ていないし、そんなことをやっていると言う者にはロクでもない者も多いので、あくまで参考程度に聞くにとどめた方が良い。

毎日、長時間、心の中で丁寧に真言を唱えている者に、愚か者、運の悪い者が居るとは考えられない。
だが、普通の人が声を出して唱えていたら、小声の場合は良いかもしれないが、そんな者に、あまり賢い人はおらず、まして、耳障りな声であれば、愚か者であると思う。当然、運も悪い。
私は、これしか知らないからという理由で、以下のものを勧めている。
「南無阿弥陀仏」(参照:『選択本願念仏集』『歎異抄』)
「南無観世音菩薩」(参照:『法華経』25章『観音経』)
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」(阿弥陀如来真言)
「オン、アロリキャ、ソワカ」(観世音菩薩真言)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(般若心経の呪文)
「オン、アビラウンケン」(大日如来真言)
優れたものであれば、どの真言も良く、優劣はない。
1つでも良く、心楽しい限り、いくつでも構わない。
ちなみに、自分が真言を唱えていることを、人に言う必要はないし、今の世の中、言わない方が良いかもしれない。
だが、唱えていれば、幸運に恵まれ、不思議な、そして、大きな力の援助があり、また、自然に、周囲から敬われるようになるだろう。皆、なぜかは分からないが、そんな者を敬わずにはいられないのである。








  
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