国際的な心理学者であった佐藤幸治氏(1905~1971)の『死と生の記録 真実の生き方を求めて(講談社現代新書)』という本は、1968年の出版の、50人あまりの人々の死の直前の記録である。
その、50人の亡くなった人には、若い人から老人までいて、立場も様々である。
昔の学者の本だけあり、現代的感覚では、やや堅苦しく、また、これも学者特有の饒舌さもあるので、読むのに少し根気が要るが、貴重な資料と思う。

その中で、念仏者の死の話として、「尼港(にこう)事件(1920)」の時の話がある。
尼港事件とは、冬に港が凍結して孤立状態にあった、ロシアの尼港(ニコラエフスク)で起こった、大規模虐殺事件だ。
虐殺を行ったのは、4,300名のパルチザン部隊である。
パルチザンとは、軍隊組織をなした暴眠で、この時のパルチザンの構成は、ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人であったようだ。
パルチザンは、いきなり尼港を占領し、住民に対し、略奪、処刑を行い、殺された住人は総人口のおよそ半分である6,000名を超え、日本人犠牲者は731名と言われている。
この本によれば、尼港に住んでいた日本人700余名は、だしぬけに牢獄に入れられ、二か月半ほどで、女子供含め、全員が銃殺されたという。
ところが、その中で1人のお婆さんが、時々、「ナムアミダブツ」と念仏を唱えていたが、このお婆さんは、他の人々と違い、少しも恐れることも嘆くこともなく、平然として病人や子供の世話をしたり、悲しんでいる女性達を慰めていたという。
これには、パルチザンの者達も驚き、銃殺前に彼女を呼び、「どういう信仰を持っているのか?」と尋ねたようだ。
すると、このお婆さんは、
「仏様の大きな慈悲に抱かれているという信仰です。私達には何の恐れも心配もありません。私達の心はいつも平和で明るいのです」
と言って、平然として銃口の前に立ったという。
この話について、著者は自分の見解を述べてはおられないが、その方が良いであろう。
私は、この話で、因幡の源左(いなばのげんざ。1842~1930)のような妙好人(在家の念仏行者)を思い出す。
因幡の源左も普通の農民であったが、念仏のためか、常人を明らかに超えた人間として、今日でも知られている。
源左について、こんな話が知られている。
ある夜、源左の畑の芋が何者かに掘り起こされ、盗まれた。
すると、源左は、畑に鍬を置いておくようになった。
理由を尋ねると、
「手で掘って怪我をするといけないから」
であった。
また、ある時、町で作物を売り、その売上げの金を持って村に帰る時、ずっとついて来る男がいた。
源左にだって、それが強盗だということは分かったが、源左は男に平気で近付き「金が欲しいならやるから」と安心させ、家まで連れていって食事をさせたという。
強盗は金を取らずに引き上げたようだ。
尚、この話から、私は、さらに、江戸末期の神道家、黒住宗忠の次のエピソードを思い出す。
黒住宗忠は、言い伝えによれば、キリスト並の奇跡を何度も起こしている。
ある夜、追い剥ぎが、人気のない路上で、宗忠に「十両出せ」と脅した。すると宗忠は、
「あいにく今、五両しかない。残りは明日」
と言って、五両を渡し、翌日、本当に五両を用立てると、約束の場所にその金を置いていき、訴えも何もしなかった。
その追い剥ぎは、宗忠の門下に入った。
宗忠は、天照大神を信仰していたが、この天照大神は『古事記』に登場する女神というよりは、太陽神のような、根源神として崇めていたのだった。
宗忠は、「ありがたい」という言葉を重要視し、らい病に罹った武士に、1日1万回「ありがたい」と言わせることで、1週間ほどで完治させた話もある。
これらの話から、念仏の力、あるいは、「ありがたい」のような言霊の力を感じることが出来ると思う。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ