『婆子焼庵(ばすしょうあん) 』という禅の公案がある。
公案とは、言ってみれば、謎かけクイズのようなものだが、その不可思議なお話について考え、その意味することを見抜くことで賢くなる頭のトレーニングなのである。
工学禅を提唱した著名な発明家で、能力開発の大家であった中山正和氏は、禅の公案で頭を鍛えることを勧め、著書の中で、いくつか現代人にも合った公案を取り上げ、それを解説しておられた。
中山氏は『婆子焼庵』は取り上げておられなかったが、私は、この公案が好きで、昔から考え続け、何度か、「解けた」と確信して喜び、このブログでも何度か解説したが、後になるほど良い答が出た。
しかし、ついに解けたと思う。
『婆子焼庵』 については、沢山の仏教や禅の専門家が著書で、難しい言葉を使った難しい解説をしているが、そんなものは誤魔化しで、子供でも分かるようにとは言わないが(エロいので子供には言えない)、普通の言葉で説明すべきであると思う。

『婆子焼庵』は萌える禅語で(笑)、こんな話だ。
1人の真面目な青年僧がいて、あるお婆さんが、その僧に小屋(庵<いおり>とかいう修行小屋だ)を与えて世話をしていた。
そのおかげで、青年僧は修行に打ち込んでいられた。
時が経ち、お婆さんは、「そろそろ良いじゃろう」と思い、自分の若い娘(実の娘ではないと思う)に、その僧を誘惑させる。
皆さんは、その娘については、自分の全く理想のタイプを想像すると良いだろう。
そんなのが、誘惑してくるのである。
さあ、その修行僧はどうしたか?
なんと、全く動じず、娘を冷たく突き放した。
それを聞いたお婆さんは、僧を追い出し、使わせていた小屋を焼き払った。
さて、この僧は、娘に誘惑された時、どうすれば良かったのか?

さあ、お分かりだろうか?
正解を知りたいなら、釈迦やイエスならどうするか考えれば分かることだ。
とはいえ、釈迦やイエスがどうするか分からないだろうし、釈迦やイエスなら、やはりこの修行僧のようにすると考える人も多いかもしれない。
だが、釈迦やイエスなら、おそらく・・・というより間違いなく、ほんの少しの間は萌えるが、すぐに冷静になるのである。
お婆さんも、この僧がそうであることを期待したのだ。
なぜ、そんなことが言えるかというと、その程度なら私でも出来るし、それ以外にあり得ないからだ。
子供は、目の前に魅力的なものがあると夢中になるが、それが去ってしまえば忘れてしまう。
少し修行が出来た人間は、それと似ていて、一瞬は夢中になっても、自分に相応しくないと分かると忘れてしまうのである。
確かに、修行が十分でない間は、忘れるのに、やや理性的努力を要するが、そう難しいことではない。まして、修行している人間には簡単なことである。
ではなぜ、今の人間は、こんな易しいことを難しいと感じ、あまつさえ、小中学校の男の先生が女子生徒に手を出すと言う猿以下のことをするのか?
それは、「感動をいつまでも」といった、商売のためのスローガンで人々を洗脳しようとする者が昔からいたからだ。
感情というものは、一瞬起こしたら、それで十分で、すぐに消すべきものであり、それは本来、簡単なことである。
だが、人々が感情をいつまでも引きずって消さずにいてくれると、商品やサービスが売れるし、騙して言いなりにも出来るから、昔から権力者は、凡民の感情を長引かせるよう誘導したのである。
学校やテレビが全力をあげてこれをやってきた結果、「あの感動が忘れられない」と、悦に入って言う愚か者だらけになったのである。

感情を感じたら、いつまでもそれに浸っていないで、薄目になったり、呼吸を微かにすれば、感情は弱くなる。
そして、釈迦やイエスのようであろうと思えば、即座に感情は消える。
そうすれば、イエスがやったような奇跡も出来るだろう。








  
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