本物の霊的指導者なら、必ず指示する訓練法がある。
それは本来、それだけで良いというほど価値あるものだ。
それは、「自分の心を観察する」ことである。
ところが、これほど重要な訓練でありながら、文字で書かれたものは、あまりに手抜きで大切な注意が全部省かれている。
その理由は、抽象的に語られていたり、聞きかじっただけの人が間違ったやり方を話したり、翻訳者が誤解をしていたなどであると思う。

例えば、日本教文社のヴァーノン・ハワードの本では、ハワードは、「痛む心」「ぐらつく心」を観察するよう指示する。
そのやり方は、「科学者のように冷徹に観察する」であるが、読者は科学者でない場合が多いので、誤解する。
科学者が何かを観察する場合、あるがままを無心に観察する場合もあれば、思索しながら観察する場合もある。
ここでハワードは「冷徹に」と書いてはくれているが、「冷徹に考えながら」と思ってしまう人も多いだろう。
偏見のある者には、心を正しく観察する方法を毎日10分教えても(10分以上教えても無駄である)、1年で理解させられない可能性が高いほどだ。
そして、ほとんどの者は偏見を持っている。

だが、「観察する」ではなく「観照する」という言い方をしてくれている人がいて、これはとても良いことであるはずが、なんと、この著者(あるいは翻訳者)は、「観照」の意味を述べていない。
観照をgoo辞書で引くと、

1 主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。

「僕は単に存在するものをそのままの状態で―して」〈島木健作・続生活の探求〉

2 美学で、対象の美を直接的に感じ取ること。美の直観。

となっているが、やはり、誤解を与える。
1で言えば「主観をまじえないで物事を冷静に観察して」までは良いが、「意味を明らかにすること」で間違う。
「意味を明らかにすること」と言ったら、自分で考えて明らかにしようとするのだ。
学校では、「答は先生に教えてもらう」か、「自分で考えて答を見つける」という方法だけを教わるのだから、当然、間違う。
2の「美学で、」の方は、抽象的過ぎて、普通の人には分からない。学校やテレビは、そんなやり方は教えない。
それに、この美学のやり方を語る者だって、ほとんどの者が本当は分かっていない。

「観照する」を分かり易く言うと、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じるリーが弟子の少年に言った「考えるな、感じろ」なのだが、あの少年は、あれで分かったとは思えないし、やっぱり、抽象的過ぎて、ほとんど誰も分からない。
まず、学校やテレビで学んだ人は「考えるな」からして分からない。
一般的に「何も考えていない」というのは、「余計なことを考えている状態」と理解されている。
「感じろ」は、特に、学校では徹底して排除されている。
どう感じるかを言葉にしないと試験で評価出来ないからだが、感じ(フォーリング)は言葉にすれば変質してしまう。
学校に行かなかった者が真に優秀なのは、そんなことをさせられなかったからだ。
アインシュタインは「感じ」を言葉にすることを拒否したので、劣等生として教師に迫害された。

「考えるな、感じろ」と言われたら、普通の人は「必死で考えてしまう」のだ。
いや、「感じろ」と言われても、「ちゃんと感じていると評価されるためには、どんな反応をすれば良いか」と考えるのだ。
学校の弊害はもう、救いようがない。

「考えない」「感じる」というのは、傍から見たら、「ぼーっとしている」状態でしかない。
だから、ちゃんと「考えていない」「感じている」生徒は、教師に「ぼーっとするな!」と怒られるのだから救われない。
思想家の吉本隆明氏は、ぼーっとすることの大切さを理解していた。
だから、子供達(娘2人)がぼーっとしていたら、彼女達が母親に買い物を命じられたら、この日本最高の思想家が自ら買い物かごを持って大根やイワシを買って来たのだ。

学校の音楽の時間に、せっかくCD等で名曲を聴いても、「どう感じたか?」などと、阿呆な質問をされ、阿呆なことを言わされてしまうのだ。
もう、学校なんか行くなよと言いたいが、実際、アメリカではアンスクール(非学校教育)という素晴らしいものが普及し始めているようだ。
『バカをつくる学校』(ジョン・テイラー・ガット)という、ベスト教師賞を受賞した教師が書いた、なかなか良い本があるが、馬鹿になりたくなければ学校には行かないことだ。
日本は、1憶総馬鹿生産の体制が強力である。
岡本太郎式に言えば、
「ぼーっとするなと言われてもいい。いや、ぼーっとするなと言われないといけない」
である。

神様になるなら、自分の心をぼーっと感じることだ。
分かるかなあ・・・








  
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