人生がうまくいっていない人も多いだろうから、何度か書いたエピソードだが、本当に人生がうまくいっていなかった人が、人生を大逆転させた「お祈り」について、少し詳しく書く。
仕事が面白くない人、そもそも、仕事がない人。
そして、お金がない人、いや、借金に苦しんでいる人へ。

以下は、夏目志郎さんという、中国出身の世界的セールスマンだった人の本に書いてあったことだが、どの本だったかはもう分からない。
そして、かなり昔読んだことでもあり、正確ではないと思うが、重要な部分では合っていると思う。
夏目さんは中国の名家の出身で、戦後まもなく、日本で事業で一旗揚げるために、懐に大金、そして、高級外車と共にやってきた。
ところが、すぐに詐欺に遭い、大金を失くすばかりか、莫大な借金を背負ってしまう。
失意の中、夏目さんはクリスチャンになり、英語も出来たので、ボランティアでアメリカ人宣教師の手伝いをして、キリスト教の普及活動を行い、貧しいながら充実した日々を送っていたが、交通事故に遭い、重傷を負って入院する。
もう踏んだり蹴ったりの中、夏目さんは、最後の頼みの綱である神様に、こう祈った。
「神様、これまでの私の人生の失敗は私の責任です。だけど、今後の人生については、あなたに責任を取って欲しい。私ももう35歳です。これはという仕事を下さい」

以上は、以前も書いた。
しかし、これが、恐ろしく科学的で正しい祈りであることは、最近気付いた。
「これまでの人生の失敗が私の責任」というのは、当たり前のようで、その正しい意味が分かる人はいない。
つまり、夏目さんは、人間のちっぽけな力だけを使って成功しようとしたのだが、それが間違いだったのだ。
自分の努力だけで成功した人はいない。そんなことを目指すと悲惨な目に遭う。
人間の側から見れば、成功なんてのは「たまたま」でしかない。
正直な成功者は皆、「私が成功したのはたまたまだ」と言うのだ。
その「たまたま」をどう掴むかが重要だ。

そこで、夏目さんは神様に、「あなたにまかせる」と言い、その決意として、「だから責任取って」と、一見、とんでもないことを言う。
だが、これは、昨日の記事、
★自分が脇にのけばうまくいく
の、末期癌で3ヵ月の余命を宣告された女性と同じことをやったのだ。
その女性はこう言っている。
「以前いた“私”はもういなくなった。私は脇にのいた」
神様に責任を渡すとは、人生の全てを神様に預けた・・・あるいは、自分の人生を明け渡したということだ。
これにより、夏目さんの自我は脇に退き、「いなくなった」のだ。
すると、夏目さんが祈った翌日、百科事典販売会社がスカウトに来たのである。
まあ、人生を預けた相手は神様なのだから、大企業のサラリーマンになるより堅い(笑)。

このようなことは、新約聖書の福音書では、イエスの言葉として、こう述べられている。
「汝、破れたり。私の後方に退けサタン」
サタンは自我である。
そして、「私」はイエス個人のことではない。
神である純粋な意識のことで、イエスの中にあるだけでなく、誰の中にもある。
純粋な意識とは何かというと、存在の自覚で、「私は存在する」という感覚である。
変なことを言うと思われるかもしれないが、こう言うしかないのである。
普通の人には、なかなか分からないかもしれないが、重病で余命わずかになるなど、自分の力で対処不能な状況になると自然に分かるかもしれない。
自分も分かりたければ、「私は存在する」あるいは「私は在る」と心の中で繰り返し、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えると良い。
すると、ふと分かる時が来ると思う。
「私は在る」が本当に神だからだ。
そうやって、自我が退き、神である存在の自覚「私は在る」が現れると、その女性や夏目さんのようになるのである。
何度も紹介して恐縮だが、重要なので再度書くと、
・トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の「死という助言者」の章。
・ネヴィル・ゴダードの『新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま』
が参考になると思う。








  
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