世界を動かすには、財力や戦術を生かした、大きく、かつ、効果的な労働、攻撃、宣伝が必要だというのが常識だ。
しかし、夢の中の世界を動かすのは精神であり、お金も戦術も労働力も攻撃力も宣伝も、全て必要ない。
そして、実は、現実世界も夢の世界と、ほとんど、あるいは、全く変わらず、必要なのは精神の力だけであると考える、あるいは、見抜く賢い人が増えてきているように思う。

ただ、もし、現実が夢と同じであるとしても、夢の世界を自在に動かすことだって、とても難しい。
優れた呪術師は、夢も現実も同じように自在に操るという話もあるが、彼らは、どのようにしてそれを為すのだろうか?

夢を見ている時だって心はあり、その心が夢の世界を作っていると思うかもしれないが、もしそうなら、好きな夢を見ることが出来るはずだが、実際には、そうではない。
夢の世界を作っているのは、心の奥深くにある何かだ。
そして、現実世界を作るものも、それと同じ・・・心の奥深くの何かだ。
心の奥深くにある何かを、潜在意識とか無意識とか、あるいは、超越意識などと呼んでいるが、呼び名をつけたからって、その正体が明らかなわけでなく、むしろ、本当は全く謎なのだ。
だが、旧約聖書で、モーセの前に現れた神が、秘密を明確に語っている。しかし、その意味が分からない人が多いのである。
神は、モーセに、「私は『私は在る』と言う者である」と言ったのだ。
ところが・・・
それなら、「俺だって、それくらい言える。『俺は在る』」と言うべきなのだ。
そう、俺は神なのである。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「常に、存在の感覚にしがみつけ」と言ったと『アイアムザット』の翻訳書に書かれているが、これでは、どういったニュアンスで言ったか分かり難い。
「存在の感覚にしがみつけ」とは、「自分が存在すると感じろ」ということだ。
だが、誰も、自分が存在するという感じになど注目せず、無視してしまっている。
自分が存在するという感じなど、少しも面白みがなく、それよりも、他のこと・・・美味しいものを食べた時の感じや、遊びに行った時の楽しさの感じ、新車に乗った時の嬉しい感じ、性的な快楽の感じ・・・みたいなものばかりを重要視し、存在するとはどんな感じかなど、全く興味がない。
しかし、自分が存在する感じがどんなものか、分からないはずがない。
ただ、それが少しもエキサイティングでも面白くもないので、「存在することを感じろ」なんて誰も言わないのだ。
それをあえて、「私は在る」と感じれば、即ち、「私は神」なのである。
最初は、マハラジも時に薦めたように、「私は在る」という言葉で思ってみても良い。
しかし、いつまでも、そんな言葉を呪文のように繰り返さず、「私は在る」と感じれば、それが神への復活である。
そうしたら、夢も現実も、自在に創造出来るようになるだろう。








  
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