「馬鹿と言う者が馬鹿」という言葉は誰でも知っているのではないかと思うが、この言葉はおそらく真実だ。
そして、他人を馬鹿だと思うことが多いほど、馬鹿さ加減も大きいに違いない。
こんなテレビ番組を見た覚えがある。
番組の演出っぽい感じもあったが、一流と言われる中学校の生徒達が、賢そうに世間の大人達を馬鹿にする様子が放送されていたが、それが彼らの思考傾向であるような雰囲気が感じられた。
それなら、この生徒達は馬鹿なのだろう。
しかし、それを彼らに言ってやる大人がいないのかもしれない。
それどころか、大人達も、これらの生徒達は賢いのだと誤解をし、彼らを「賢い」と言うことも多いのだと思う。
だが、この生徒達は、きっと、今後、悩むことになる。
賢いはずの自分が、実際には何も出来ないからだ。
そんな悩みが大きくなった時、「お前は馬鹿だ」と言ってやれば、彼らもほっとするのである。
「ああ、やっぱりそうだったのか」ってね。
おそらく、一流中学の生徒が皆、馬鹿だというわけではない。
そんな中学校の中にだって、他人を決して馬鹿にしない賢い生徒だっているかもしれない(そう思いたい)。

こんなことを書いておいて、私が心底馬鹿だと思った人間の話を書く。
相手を馬鹿だと思うなら、自分はそれと同等以下のはずなので(でないと相手が馬鹿だと感じないらしい)、確かにそうなのだろうし、最近は、ほんのちょっとだが自覚するようになった(笑)。
それは、私が珍しく、会社の社員旅行なんてものに参加した時のことだ。
本当に何の気紛れだったのか、今も謎だ(笑)。
ホテルの大部屋に5~6人が割り当てられていたと思う。
そのホテルに到着し、皆で少し休憩していた。
1人の30代の男性が、部屋に用意されていた、お湯の沸いた電気ポット、急須(和風ティーポット)でお茶を入れ始めた。
彼は、急須に、本当にギリギリいっぱいまでお湯を注いだ。
進んで皆にお茶を入れてあげようというのだから、殊勝だと思いこそすれ、ケチをつけるわけにはいかないが、「数回に分けて入れろよ」と思ってしまう。
そして、湯飲みにお茶を入れるが、最初の大きな湯飲みに、これまた、本当にギリギリいっぱいまでお茶を入れる。
「いや、そんなにいっぱいに入れたら、運ぶの大変だし、そのビッグな湯飲みいっぱいのお茶じゃ多過ぎるし・・・」と心で思ったが、まあ、放っておいた。
ところが、彼は、そのいっぱいにお茶を入れた湯飲みを掴むと、それを飲み始めた。
ごくごくと、あっという間に全部飲み干す。
空になった湯飲みに、急須に残ったお茶を入れると、再度、湯飲みはいっぱいになった。
彼は、そのお茶を再度、自分でごくごくと飲み、あっけなく飲み干す。
私はもう、蟻が歩いているのを見るように、ただ傍観するしかなかった。
それで、彼が再度、ポットから急須に、ぎりぎりいっぱいまでお湯を注ぎ、そして、そのお茶を湯飲みをまたいっぱいに入れ、それをやはり自分で飲み始めたのも、務めて平然と見ていた。
三杯目を飲んだ後、彼は私に、渋く微笑みながら「僕、お茶好きなんです!」と言った。
その会社は、全員が大卒で、しかも、ほとんどが、そこそこ以上の偏差値の大学や大学院の卒業生ばかりだから、彼も学歴は悪くないと思う。
まあ、学歴が高いほど馬鹿だと言う論もありそうな気がするが。

ところで、その時、周囲に人が沢山いたのだが、他の者は誰も、彼の行動を不審に思っていない様子だった。
ところが、私を彼を、心底馬鹿にしている。
つまり、彼レベルの馬鹿は私だけということになる。
これは、ほんの少しショックである(笑)。
しかし、私はもっと馬鹿なのだという閃きは与えてくれたかもしれないのだから、彼には感謝しなくてはならない。
これこそが、ソクラテスも座右の銘とした、ギリシャのデルフォイ島のアポロン神殿の入り口に書かれているという、「グノーティ・サウトン」・・・「汝自身を知れ」「身の程を知れ」ということなのだろうと思う。
伝説によれば、徳川家康は、天下取りの秘訣を問われたら、短い方は「上を見るな」で、長い方は「身の程を知れ」だと言ったらしい。
しかし、その天下のアドバイスは、聞いた者には役に立たなかったのだろう。
家康は、自分が馬鹿だということを心底、思い知っていたという証拠がある。
だから天下を取れたのだろう。
だが、私には天下は遠そうだ。








  
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