今、落ちこぼれている人間、あるいは、元々駄目な人間の方が良いかもしれないという話をする。
なぜ、そう言えるかというと、世の中の仕組みや価値観が「ゴロっと」変わってしまうからだ。
今の世の中で、優秀とか、立派とか、偉いと言われるための基準が、本当になくなってしまうのである。
例えば、今の世の中では、一流と言われる大学を出ていることには価値があり、それに該当する者は優遇される。
しかし、もうすぐ、「〇〇大卒?それが何?」と言われる時代になる。
これからの優秀の基準は、もっとまともな、当たり前な、自然なものになる。
もちろん、一流大学卒業者でも、本当の意味で優秀であれば、これからもうまくやっていけるだろうが、〇〇大卒であること自体には特別な意味はなくなる。
「いや、なんだかんだ言っても、一流大学卒業者はやはり優秀だ」
と言う者もいると思う。
そりゃあ、そんな部分も確かにある。
しかし、これまでなら、それで60ポイントが得られていたのが、せいぜい0.3ポイントしか得られないことになるかもしれないし、しかも、一流大学卒によるマイナス面により、マイナス20ポイントになってしまうかもしれない。
まあ、実際は、これからの世の中では、「ポイント」だの「ランキング」だのという言葉は、あまり聞かなくなると思う。

ある民族では、首が長いことが美人であるという共通の観念があり、その民族では、女の子は生まれた時から、首にリングを付け、時と共に、そのリングを増やして首を長くするそうだ。
それがうまくいった女の子は、首が異様に長くなるが、その民族では、皆が、「首が長い女性が美人」という洗脳がされているので、外部から見れば不気味でしかない首の長い女性が、「本当に美人に見えている」のである。
ところが、ある時、何かが起こって、その民族の、「首が長い女性が美人」という洗脳が解けてしまったら、これまで、「素晴らしい美女」と言われ、もてはやされてきた首が物凄く長い女性が、惨めな「不気味な女」になってしまうのだ。
これを、我々に当てはめると、「一流大学卒」「家柄が高貴」「大企業の社員」「高級官僚」「金持ち」「ある種のマナーに通じている」「高身長」「若い」といった、これまでは美点とされてきたことが、「首が長い」というのと同じ価値とみなされるかもしれない。
もちろん、家柄が良いことで蔑まれることはないが、家柄を鼻にかけ、他人を見下すなら蔑まれることになるかもしれない。
そもそも、今後も、名家ということに、ある種の価値は認められても、それが権力や財力に結び付くことがなくなるので、馬鹿でない限り、その家の者が他者を見下すことはないはずだが、そうではない、従来の価値観にしがみつく者も、当面は多いかもしれない。
ただ、そんな古い人間が迫害されることもなく、皆が、「普通に温かく」接してくれるので、いつかは、そんな歪んだ人間も正しい認識を持つに至る。

今後は、温かく広い心を持ち、親切で、真の意味で高貴で有能な人間がリーダーになる。
今後の世界で必要とされる能力を持った者が、その力を発揮し、自分を幸せにしつつ、皆を益することになるだろう。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』ように、「自分を勘定に入れない」ことは、現在においては美徳と思われるかもしれないが、新しい自分の優秀な人は自分を特別視しないので、自分も他者同様という意味で勘定に入れるのである。

これまでの価値観では優れているとは見なされていない、いわば、落ちこぼれの方が、早く新しい時代に馴染むかもしれない。
新しい時代での価値は、今は考えられないような方法で得られるもので、ある意味では、誰でも簡単に手に入れられるのである。

ところで、上に挙げた「首が長いほど美人」とされる民族は、本当にあったことである(現在もあるかどうかは私は知らないが)。
今でも、「個人の趣味だからほっとけ」と言われたら確かにそうだが、「女性は太っていればいるほど美人」と感じる人が実際にいる。
その人には、体重が100kgより150kgの女性の方が美人だと感じるのである。
これも、敢えて言えば洗脳なのかもしれない。
それで言えば、ナボコフの小説『ロリータ』で、主人公のハンバートが語る「ニンフェット」と呼ぶに相応しい美少女というのも、「首が長い女」「太った女」と同レベルの価値であり、今も、ロリコンと言われる人の女性に関する美の価値観も、ただの洗脳かもしれないのである。
男の場合だけでなく、韓国のスター達に熱狂する女性の、「素晴らしい男性」の基準も、後の世の人には、せいぜいが「一輪車を趣味とする男性が異常に称賛された不思議な現象」というのと同じ程度のものかもしれないのである。








  
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