人間は、魂が肉体をまとった存在だが、それだけではなく、守護霊や指導霊、支配霊その他の霊がついているという説がある。
だが、政木和三さんが、現代的に、次のように定義されている。

人間とは、肉体に、自分自身である第一生命体と、第二、第三、第四・・・の生命体が融合した存在。

ただ、第一生命体と第二生命体までは、どんな人間にも必ずあるらしいが、第三以下の生命体がいくつあるかは人それぞれであるらしい。
稀に、第二生命体がない場合もあるのかもしれないが、これは不都合であるようだ。なぜなら、人間の力というものは、第二生命体以下の生命体に因るからだ。
優秀で強い第二、第三の生命体がつくことで、高い能力を発揮したり、幸運も掴むことが出来る。
そして、第一生命体は不変だが、第二以下の生命体は、入れ替わることがある。
よって、是非とも、優れた力のある第二、第三の生命体がついて欲しいものである。

どんな第二、第三の生命体がつくかは、第一生命体次第である。
第一生命体が、大きく、高貴で、円満であれば、立派な第二、第三の生命体がつく。
だから、是非とも、自分自身である第一生命体を立派にしなければならない。

毎日、飲んだくれているようでは、第一生命体がヘロヘロになってしまい、それでは、優れた第二、第三の生命体がつくはずがない。
弱い者いじめをして喜び、他人を見下し、卑怯なことを平気でする者には。それなりの・・・つまり、汚らしい生命体しかつかないだろう。
性的な快楽に耽る者にも、決して、力ある生命体はつかず、やはり、いやらしい惨めな生命体しかつかないだろう。

一般的に言えば、第一生命体を立派にするのが修行である。
ただし、一般の修行のイメージである、滝行や坐禅のような修行をしても、清廉ではあっても、世俗的に強い生命体はつかないかもしれない。
貧しくても、武道や宗教を究めれば満足なのであれば、そんな第二第三の生命体と共にいれば良いのかもしれないが・・・
世の中で通用する人間になる修行は、出来る範囲で、世俗で苦しみ戦うことである。
その中で、凡人に出来る最も良い修行の1つが、嫌いな人間の機嫌を取ることであるらしい。
つまり、自我が辛い苦しいと感じるものほど良い修行なのである。
自我が自己満足するようなことは修行では、世の中で勝てる第二第三の生命体はつかない。

とはいえ、今、第一生命体が弱く歪んでいる上に、第二生命体以下も弱い場合は、いきなりきつい修行は無理である。
そこで、毎日欠かさず、自分なりの修行をして、第一生命体をそれなりに立派にする必要がある。
それには、「自分にはちょっと厳しい」と思える程度のことを、とにかく、1年続けることだ。
例えば、毎朝ジョギングをするなどでも良い。
毎朝6時にジョギングすると決め、これを1年365日欠かさずやると決める。
「自分にはちょっと無理だな。しかし、頑張れば出来る」と思えることをするのである。
それをやり遂げれば、第一生命体はかなり立派になっているだろう。
呪文、真言、念仏を唱えるのも、もちろん良いが、規則正しく、それなりの時間やらないといけない。
例えば、世界でもトップクラスの数学者だった岡潔は、毎朝1時間念仏を唱えていたらしいが、やはり、決めた時間に20~30分程度は唱えたいところである。

あるいは、理想的な人格を持つ者に倣うという手もある。
英雄の書を読んで、自分も、是非とも、そのようになりたいと「真剣に」思うことである。
私が特に憧れる存在を挙げるなら、福音書(新約聖書)のイエス・キリスト、『ラーマーヤナ』のラーマ、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナである。

あるいは、第一生命体が生まれ変わり、優れた第二生命体を呼ぶことで強い人間になる様子を鮮やかに描いた『マジック・ストーリー』(翻訳には『マジック・ストーリー』と『人生を変える魔法の物語』がある)を読むことである。








  
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