40代の男性だったと思うが、マンションに引きこもって生活していたのが、不健康な生活のためか突然死したらしい。
そして、マンションに入ってみたら、部屋の中はすごい散らかり様で、掃除もしていなかったが、壁には女性アイドルグループのポスターが多数貼られ、あちこちに、そのアイドルグループの写真集やDVDなどが山積みされていたという。
また、やはり突然死した、以前は教師をしていた50代の男性の部屋には、大変な数のアダルトDVDがあったという。

彼らは、誰にも相手にされず、享楽的(快楽にふけること)な趣味に溺れ、あまりの不健康さに心身が駄目になって死んでしまったのだろう。
だが、彼らは成功に近かったのだ。
その不健康な趣味をきっぱりやめれば良かったのである。
アイドルグッズやアダルトグッズをきれいさっぱり捨て、そんなものとの縁を切れば良かっただけである。

つまり、「我慢」である。
放埓(ほうらつ。勝手気まま)に振る舞いたい気持ちを抑えることを我慢というが、人間は我慢した分の倍の力を持つのである。
なぜそうなるのかは説明し難いが、それが明晰な宇宙の法則とでも言うようなものであると思う。
遅くまで寝ていたい気持ちを我慢して早起きし(自然に早く寝ることになる)、美味しいものをたっぷり食べたい気持ちを我慢して少食粗食になり、その他のことでも、奔放に流れる気持ちを我慢して、それと反対のことをしていれば、内部からの導きもあったかもしれない。

戸塚ヨットスクールのように、人間として駄目な者に、強制的に健康的な生活を強制して心身を強くする方法もあるのだろうが、最も重要なことは、自分の意思で我慢することである。
「我慢させられる」では、ほとんど力を得られないのである。

「好きなことは徹底的にやるべきだ」と言い、それを実行したがる者もいるが、その好きなことが創造的ではない、単なる趣味や快楽である場合は、それをしたい気持ちを我慢しなければならない。
そうでなければ、惨めな未来が待っているだけだ。
特に、飲食に関すること、性的なこと、自己満足でしかないことには注意しなければならない。
そういったことを、我慢せずに求める者を客観的に見れば、少しも良いものではない・・・言っては悪いが、醜いことが分かるはずなのだ。

ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』という世界的に有名な小説作品がある。
いわゆる「ロリータ・コンプレックス」の語源になった小説で、40代の学者ハンバートは、9歳から14歳の個人的感覚で可愛いと思う少女を熱愛する・・・まあ、ただの逸脱者である。
著者のナボコフが、あくまで喜劇のように書いたと言う通り、ハンバートはその自分の趣味を、崇高で知的で芸術的なような言い方をするが、どう言おうが単なる変態である。
そして、ハンバートは、社会的に自分が危なくない限り、我慢せず、自分の欲望に従った・・・つまり、卑劣でもある訳だ。
当然、彼は醜悪で惨めであり、そして、哀れな最後が待っていただけである。
だが、彼は、ロリコンを自分の意思や道徳観で、きっぱりやめていれば、それこそ、本物の崇高さ、知性、そして、芸術を持てたかもしれなかったのである。
つまり、彼は、チャンスを棒に振ったのだ。
こういったことを知るために、『ロリータ』の小説や映画を鑑賞するのは良いことだと思う。
スタンリー・キューブリックの映画は、ハンバートの愚かさ、醜さ、惨めさを見事に描いている。

世の中には、ハンバートのように、マイナスの形で持っているチャンスを棒に振ってしまう者が非常に多く、従って、哀れな人間が非常に多いのである。
その真逆であったのが、水野南北や上杉謙信である。
江戸時代の観相家(顔や身体の形で占う運命鑑定士)、水野南北は、特に酒が大好きで、美味しい食べ物も大好きだったのだと思うが、酒は1日1合と厳しく制限し、少食粗食に徹した。
そして、観相家として天下に轟き、それによって貴族にまで叙せられ、7つの蔵を持つ長者となり、75歳まで健康に生きた。
上杉謙信は、実は大変な女好きであったと思われるが、戦の勝利を願い、生涯、女を断った。そして、戦で負けを知らなかった。

趣味でしかないが、異常に好きなものがある者は幸いである。
それをきっぱり捨てれば良い。
あるいは、あまり(あるいは完全に)良くないが、やめられないことがあるなら、それをきっぱりやめることだ。
それが神の力を得る簡単な方法である。








  
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