最近、著名な発明家であった橋本健氏(理学博士。1924~2007)の古い本を読み返している。
超能力を扱っているので、当時の風潮なのだと思うが、表紙には多少怪しげなイラストが描かれたりしているが、中身は優れたものだと思う。
主に1980年代の本であり、既に、パソコンが珍しくはない時代だが、家庭はともかく、会社でもパソコンを使っていない方が多かった時代ではなかったかと思う。
そんな時代に、橋本博士は今日のIT時代の明確な雰囲気を予想出来ていたし、また、今日のAIの概念をかなり正確に予測しているのは恐ろしいと思うほどだ。
尚、やはり、超能力関連の本も沢山書いていた関英男博士(電波工学の世界的権威。1905~2001)が1950年代に、液晶テレビやスマートフォンとほぼ同じものを予測していたのも凄いが、そういった部分はなかなか普通の人には理解されないので、お2人共、「超能力の研究をしているから怪しい人だ」という色眼鏡で見られることが多かったと思う。
尚、橋本博士のWebサイトで「ある方」と書かれているのは私のことである(「ある方の要請により・・・」とある)。

1983年初版の『超能力入門』(本山博博士との共著)の中の「富を得る方法」が興味深かったが、皆さんの参考にもなると思う。
富を得るには、橋本博士は「父の原理と母の原理の2つが必要」と言う。
「父の原理」とは、与えることである。奉仕する、働く等で、施しをしたり、今日で言えば情報発信することも含まれると思う。
「母の原理」とは、広い心、豊かな心で、受容性と言って良いと思う。
この2つがあれば富を得られるが、片方しかないと、得られない。
単純にして、見事に真理を突いていると思う。
片方しかなかった例として、橋本博士は、詩人の石川啄木を上げる。
啄木の有名な詩、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざる。じっと手を見る」は、誰でも見たことがあるだろう。
今は知らないが、教科書にも載っていて、憶えている人も多いかもしれない。
だが、憶えているべきでなかったかもしれない。
橋本博士は、啄木が貧乏だったのは、心が豊かでなかったからだと言う。
そもそも、この啄木の詩に、心の貧しさが現れていると私も思う。
働いても働いても自分は貧乏だと心に決めている。自分は労働者だから豊かにはなれない。
啄木の詩は、そんな観念に納得し、自己を哀れんでいる雰囲気すら感じられる(そこが良いのだろうが)。
ジョセフ・マーフィーらは、「今は実際には貧しくても、自分は豊かであると言って良いのだ」と教えているが、それは重要なことだと思う。
そう思い難い人のために、マーフィーは「富」とか「成功」という言葉を、静かに、ゆっくり繰り返して唱える「単語法」を薦めていた。
また、当時(1980年代)は、新幹線のグリーン車はかなり高くて、金持ちが乗る場合が多かったのかもしれないが、なるべくグリーン車に乗って金持ちの雰囲気を味わうよう勧めている。
そして、決して、「私は貧乏だ」と思ってはならず、「私は金持ちだ」と思えと述べている。

また、政木和三博士も同じことを言われていたが(政木博士は本には書いておらず、私は直接聞いた)、「いらない」と思うと得られると言う。
「お金が欲しい」と思っている人はお金を得られず、「モテたい」と思っている人はモテない。
政木博士は、「私はお金なんて欲しくないが、入って来るものは仕方がない」「私は女なんて欲しくないが、来るものは仕方がない」と言っておられたが、橋本博士も、そのように思うことを薦めている。
私は、橋本博士の著書は10冊ほど持っているので、良い部分は参考にしようと思う。








  
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