古代から現在に到るまで、全ての聖者、賢者が説く、幸福になる方法は同じである、つまり、1つしかないことに気付いてしまった。
これは、人生のあらゆる面を含み、細かく言えば、引き寄せの方法も入っている。
その方法は、「神にまかせる」である。
この「まかせる」は「頼る」という意味でもある。
ところが、「神」について、ややこしく考える人は厄介なのである。
私もそうだが、よく、「神という言い方に抵抗があれば・・・」とか、「神を現代的に言えば・・・」などと言うが、普通の家庭の素直な子供が考える神が解れば良いと思う。
「普通の家庭」とは何か、「素直な子供」とは何かと言い出す人は、他を当たっていただけると良い。

幸福になるには「神にまかせよ」以外のことを言う聖者、賢者は1人もいない。
逆に言えば、これ以外のことを言うなら、それは聖者でも賢者でもない愚か者である。
では、どう考えても、努力の大切さを説いたとしか思えないサミュエル・スマイルズの『自助論』はどうだろう?
全く同じである。
あれは、神にまかせる心構えを作るためのもので、若者向けである。
勝手きままで、怠惰な人間ほど、神に頼ることが出来ないのである。
例えば、飲んだくれのロクデナシに、「君は神を信頼して全てまかせる気があるか?」と尋ねたら、
「てやんでえ、神が金くれるってのかい?」
「もちろんでさあ。神様、働かなくても酒を飲むお金ちょーだい」
などと言うだろう。
いずれも、神にまかせる気など全くないことが分かる。
では、狂信的な信仰者に同じこと(神を信頼してまかせるか)を尋ねればどうだろう?
「はい、そのためには戒律を守らねばなりません。我々の戒律の通りの生き方をしない者を神は助けてくれません」
「いえ、私は身を捨てて信仰しております。神を頼ったりはいたしません」
などと言うだろう。
これらも神を信じていないのである。
神を頼るのに戒律は全く関係ない。
では、神を頼れば、悪いことをしても良いのかというと、神を頼れるのに、悪いことをする必要など全くない。
「いや、場所によっては、泥棒、強奪をしなければ生きていけない」
と言うなら、全くその通りで、誤解を恐れないまま言えば、神を頼りながら泥棒をすれば良いのである。
そうすれば、逮捕されたり、報復されたりして、酷い目に遭うかもしれないが、神がうまく取り計らってくれるのである。

とにかく、幸福になるためには、神にまかせれば良いという考えに例外を見つけることは全く出来ない。
このことには、私もかなり驚いた。
アメリカ合衆国の公式標語は、「In God We Trust(我々は神を信頼する)」だが、現代の多くのアメリカ人はそれを忘れてしまっているように思える。
2400年前の中国の賢者、荘子は「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせろ」と言ったが、これこそが正しい神にまかせる方法である。

「南無阿弥陀仏」の念仏はまさに、阿弥陀如来という仏ではあるが、絶対神と同じ概念の無限の存在に全てまかせるという意味である。
これと同様、我々は、神に一切をまかせることを心に覚え込ませるような、アファーメーションや自己暗示を行えば間違いない。
現代インドでは、ナーマスマラナという、神の名を唱えることが唯一の救いの道と説く教えがあるが、これも、神を頼る心構えを作る良い方法である。
「自分を信じる」という言葉があるが、これは、欲望まみれの自我である自分を信じるのではなく、無我、忘我、没我になった自分、即ち、神を信じるということだ。
いかなる賢者の教えも理屈で説明出来るが、理屈の説明には誤解や齟齬がつきものだ。
それよりも、神にまかせるアファーメーションをした方が良い。
ただ、若いうちに、上に挙げた『自助論』を読んでおくのは良いことである。
アファーメーションとしては、やはり、「神の奇跡が起こる」をお薦めするが、他にもいろいろあるだろう。
「神は道なきところに道を作る」
とか、聖書にあるように、
「私を強くして下さる方によって、私は何でも出来る」
「神が我々の味方なら、誰が我々に敵対できようか」
と言っても良い。
誌的には、旧約聖書の、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るだろう?」
という言葉が好きな人もいる。
他にも、聖書の詩編23と91を読むと良いだろう。
このいずれか、あるいは、両方を毎日読めば不安はなくなるだろう。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ