「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、西方極楽浄土に生まれることが出来ると認識されている場合が多いだろう。
ところが、一休は、念仏を唱えると、今、ここが極楽浄土になると言った。
どちらも正しい。
「死んだら極楽浄土に行ける」の「死」とは、肉体の死ではなく、自我の死のことなのだ。

イエス・キリストが、「一度死なないと天国に行けない」と言ったのと全く同じである。
この「死」も、肉体の死と誤解して困惑した人が多かったが、自我の死のことを言っているのである。
イエスが、「退けサタン」と言った時の「サタン」は自我のことである。
だから、自我の死とは、自我の消滅ではなく、自我が退ければ良いのである。
道元が、「仏道とは自己を忘れること」と言ったように、自我が退くとは、自己を忘れることと言っても良い。
たとえ聖人であっても、人間の自我が完全に消滅することはない。
これ(自我)が退いていればいるほど良いのである。
そんな人間は、良い意味で、「この人には自分がありません」と言われるのである。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の、「自分を勘定に入れず」をやれる人である。

そして、素晴らしいのは、念仏には、自我を殺す、即ち、自我を退かせる、あるいは、自己を忘れさせる力がある。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」という意味で、もっと分かり易く言えば、「阿弥陀様に全ておまかせします」という意味だ。
阿弥陀如来は、原語でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスで、それぞれ、「無限の光」「無限の生命」という意味で、言うならば、絶対神、至高者のことである。
その絶対的な存在に全てまかせ、絶対的な存在の意思を優先し、自分の意思をその下に置く・・・イエスが言った「私の思いではなく、あなた(神)の思いがなされますように」というのが「南無阿弥陀仏」ということである。

「阿弥陀如来に全てまかせる」「無限の知恵と力を持つ阿弥陀如来より自分はずっと下」と確認する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱え続ければ、自然、自我は弱くなる。それが仏に近付くということで、仏になれば、極楽浄土に行けるのであるから、今ここが極楽浄土になるのである。
そして、科学的にも、阿弥陀如来の名で示した絶対的な何か(エネルギーとか意思)は存在することが示唆される。
ただ、現代の人間の科学で説明し切れないだけである。

このように、念仏の力は理屈でも説明出来てしまうのである。
仏教の教え全てだけでなく、キリスト教の教えも、念仏の中に含まれていると言って良いと思う。
釈迦は、いずれ末法の世になり、人々は愚昧になって、仏教の教えを理解出来なくなるが、念仏だけは効果を持つと言ったという話があるらしいが、それは本当であると思う。
もちろん、他宗教においても、根本は、「自分は神に比べ取るに足らない存在として神に一切をまかせる」ということなのであるから、そのことを理解して、それぞれの宗教のやり方に従えば良いことになる。
その中でも、念仏は特に簡単である。
とはいえ、いかなる宗教でも、その宗教で崇められている神を真摯に敬い、自分の知恵や力の小ささを思って、神に全てをまかせれば良いだけである。
もっと言えば、単に、神や仏を崇めれば良いのである。
キリスト教などでは、聖書の詩編23編や91編を読めばよく解ると思う。

余計なことを言えば、叔父の葬式で、お坊様に延々、念仏を唱えさせられたが、あれは違うと思った。
それに、なんとも辛気臭い念仏であったが、あれでは、普段、誰も唱えなくなってしまう。
とはいえ、そんなことを思わないほど自我を退かせることも大切であるのだろう。








  
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