今、『鬼滅の刃』というアニメが大変に人気があり、さらに人気は世界中に広がりつつある。
基本的に、このアニメは、炭治郎という少年が鬼と戦うのであるが、炭治郎は少年ながら大変な修行をして超人的な力を持つも、その戦いは楽ではない。
いや、楽どころか、毎回、恐ろしく強い敵が登場し、ギリギリの勝利を得る感じだ。
このパターンは、あらゆるアニメで共通で、今年25周年を迎え、昔から世界的に人気がある『美少女戦士セーラームーン』では、どんどん強い敵が登場し、セーラームーンがそれに合わせるかのようにレベルアップしていくが、いつも苦戦の連続である。
ヒーロー、ヒロインが強過ぎては、お話にならない、あるいは、お話が面白くないのだろう。

プロレスの試合は、最初から、勝敗や試合の流れが決まっているショーであるが、長く、真剣勝負をやっていることにされていた(表向きは今もされているが)。
戦後間もない頃、力道山という国民的英雄であるレスラーがアメリカ人レスラーを倒すのであるが、力道山も決して楽勝するのではなく、苦戦の後、根性で逆転勝ちするよう設定され、それは成功して大プロレスブームを起こし、そのパターンはその後、そして、現在も、おそらく未来も受け継がれるだろう。

ところが、アメリカンヒーローの代表であるスーパーマンの、1941年の最初のアニメ(カラーで凄いクオリティのアニメだ)では、スーパーマンはとにかく強い。
多少のスリルは感じさせるものの、スーパーマンの力は絶対的で、スーパーマンが登場すれば、もう視聴者は安心して見ていられた。
また、日本でも、『黄金バット』(1967)では、黄金バットは強過ぎるくらい強く、敵のナゾーがどんな怪物や巨大ロボットを出してきても、まあ、何の問題もなく黄金バットは楽勝した。
スーパーマンや黄金バットのように圧倒的・絶対的に強いヒーローは面白くないと思うかもしれないが、気楽に見れるだけでなく、やはり、どこか爽快なところがある。
私も最近、Amazon Prime Videoでこれらを見てみたが、強過ぎるヒーローも良いものだと思った。

そのような「強過ぎる」ヒーロー・ヒロインは、一般的には面白くないこともあり、珍しく、ほとんどないと思う。
ところが、2012年のアニメ『BEATLESS』のヒロインである美少女型アンドロイド、レイシアが少し違う形で極めて強い。
彼女は、身体そのものは無敵ではなく、敵の中でも、メトーデという超強力なアンドロイドに対しては、「メトーデとの直接対決は自殺行為」と自分で言うほど、メトーデの方が強い。
しかし、強力なメトーデに大苦戦するように見えても、最後には、計算通りという感じで大どんでん返しをして、敵を、そして、視聴者を驚かせる。
レイシアの恐ろしい強さは、身体ではなく、頭脳とテクノロジーなのだ。
ある時、レイシアはアラト(主人公で17歳の男子高校生)に、自信たっぷりに言う。
「私には、あなたが望む未来を引き寄せる力があります」
それは、戦闘力などとは次元の違う巨大な力である。
アラトの親友リョウは、その力を恐れ、アラトに敵対する。

だが、アラトには、レイシアがいなくても、望む未来を引き寄せる力は、自分の内にある。
そして、それは、どんな人間も同じなのだ。
我々全てが、アラトのように、レイシアが身近にいるようなもの・・・いや、レイシアなど比較にならないほどの力が味方なのだ。
『黄金バット』では、マリーという名の金髪の少女が呼べば、いついかなる場所でも、黄金バットは即座に、颯爽と現れ、マリー達のピンチを救い、敵をやっつける。ほとんど危なげなく。
だが、我々は、黄金バットにはるかに優る存在と共にあり、それはいつでも味方してくれる。
聖書にはこう書かれており、ドナルド・トランプがこよなく崇敬するノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』では、ピールは絶望の淵にいる男に、その言葉を教えて立ち直らせる。
その言葉は、
「もし神が我々の味方であれば、誰が我々に適し得ようか」
である。
「神」という言い方に抵抗がある人もいるだろうが、ジョセフ・マーフィーは『あなたも幸せになれる(文庫版では「努力嫌いの成功法」、原題は「コズミック・エナージャイザー)』で、偏在する全知全能の力を「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」と呼び、それをいつでも使えることを示した。
一般的には、マーフィーは、その力は潜在意識の力としている。
我々は、アニメや映画を通して、「あっぷあっぷの大苦戦ゲーム」に慣らされてしまい、しかも、自分はヒーローやヒロインでないので、負けるのが当たり前になってしまっているかもしれない。
だが、そうではないことを知らなければならない。
我々は、アラトやマリーより良い立場なのである。
それをはっきり認識しなければならない。
中国出身の著名なアメリカの女性作家で事業家で自己啓発の指導者であるチン・ニンチュウは、ある夜、自分が羊になり、神様に世話をしてもらう夢を見て、自分はただ、神様にしっかり面倒を見てもらえば良いのだと気付き、涙が止まらなかったと言う。
我々も同じなのである。








  
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