不思議なこと、神秘的なことが好きな人のことを、否定的な意味で「夢想家」「神秘家」「オカルティスト」「現実逃避」等と言って蔑む人が多い。
だが、ある程度は、不思議なことが好きでないといけない。
なぜなら、宇宙は、不思議なことに満ちているからだ。

度の過ぎた不思議好き、神秘好きで、現実を見ないという人がいるという話がある。
だが、「現実を見ない」というのは、実は、不思議好き、神秘好きとはあまり関係がない。
不思議なことを話す者を馬鹿にしている学生には、毎日の食事が魔法のような力で出てくる・・・つまり、親が苦労してお金を稼いでいたり、食べ物の材料を誰かが収穫、生産し、そして、誰かが運んでいる・・・等ということを全く考えたことがないという者も多い。
上皇陛下、上皇后陛下が、子供の時の天皇陛下きょうだいを育てられる時、「毎日の食事が魔法で出てくるのだと思わせないよう配慮した」という話を聞いたことがあるが、普通の家庭の方が、よほど、そんなことを考えていないのだと思う。

この世が神秘に満ちていると言ったら、
「それは科学が未熟なためで、いずれは、全てを合理的に説明出来るようになる」
と言う者もいるが、それは傲慢というものかもしれない。
『ミクロの決死圏』というSF映画で、モノをミクロサイズに縮小する技術で小さくなって、人間の身体の中に入り込んだ科学者達がミクロレベルでの生体活動を見て、ある科学者は「神の存在証明だ」と言うが、別の科学者は「偶然の進化」と言う。
どっちの考えを支持するとしても、浅はかであってはならない。

2400年前の荘子が、人間の知性などたかが知れていると言ったが、賢くなればなるほど、そう思うものではないだろうか?
学校の試験の成績が良いことで自分が賢いと思うことは、実は馬鹿なことだと教えてもらえない世の中であることが、無駄な不幸や問題を起こしているのではないだろうか?
最も賢い者は、ソクラテスのように、「私は、自分が何も知らないということだけを知っている」と考えているかもしれない。

人間の中には万能の力があり、信じたことは実現する。
人間の知性の範囲で考えれば、これは愚かな考えである。
だが、自分を超えた存在があると思うことが出来るなら、希望を見出し、人生は生きるに値するものになるかもしれない。
もし、知性にとって神秘に感じるものがないとしたら、ある芸術家が言ったように、人生など下男にやらせておけば良いのであるが、その下男も真理を知れば、そして必要があれば、下男をやめることが出来る。

だが、それでも、人間の知性で全てを説明出来る、あるいは、説明出来るようになると信じる者がいるなら、それはそれで尊重する。
知性で一応の説明が出来ることも多い。
だが、当たり前の現象の背後にも、やはり、人間の理解を超えたものが存在する。
そして、なまじ感性が鋭く、知性があるために、解るはずがないことを解ろうとして悩む者もいる。
解らないことを、うまく留保することも知恵である。
解らないからといって否定すれば、解らなくても使えるはずの神秘の力を拒否することになる。
実際のところ、我々は、自分の手をどうやって動かしているかについても、ほんの少しのことしか知らない。
まして、奇跡のような大きな力のことは、ほとんど理解出来ない。
宇宙がどのように出来たか、少しは解っているかもしれないが、全体としては、全く解っていないに等しい。
だが、宇宙を創造した力が手を貸してくれるという好意を断わる必要もあるまい。








  
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