最近の私の最も大きな気付きは、「祈りとは命令であり、要求である」ということだ。
「要求」に関しては、普通に行われているように思う。
例えば、「受験に合格しますように」といったものだ。
しかし、この言い方でが決意が足りない。
命令形で、「受験に合格させたまえ」といったものが良いのだと思う。
この言い方は、クラス委員長が、教室が騒がしい時に、「静かにしたまえ」という時の、いわゆる「偉そう」な言い方だが、それで良いのだ。
祈りとは、権威を持ってするものなのである。

キリスト教の「主の祈り」でも、英語では、
Give us this day our daily bread.
と言うが、これは普通は、「日々の糧を与えたまえ」と訳すが、これは、明らかに命令形なのである。
神道でも、「祓え給い、清め給え」と、やはり命令形で言うものだ。
『マジック・ストーリー(人生を変える魔法の物語)』に、こんな印象深いことが書かれている。
「彼はお願いしない。要求するだけだ」
「彼の要求は絶対だ」
ここでの「彼」とは、「プラスの自分」であるが、まあ、「前向きな自分」と言っても良いと思う。
そして、絶対の要求とは、やはり、命令なのである。

ジョセフ・マーフィーの本にも、万能の潜在意識に対し、要求を述べた後、「私は命じる」と明言する箇所がよくある。
良いことであるなら、弱腰で恐る恐る要求する・・・つまり、「お願い」するのではなく、強い要求、即ち、命令すべきなのである。
ベルベル・モーアの『その望みは宇宙が叶えてくれる』には、例えば、著者のモーアが彼氏が欲しい時には、宇宙に向かって、望みの条件を上げ(菜食主義、太極拳が出来る等)、「そんな彼氏ちょうだい」と言うのだが、これも本来は、「これこれの条件に合う彼氏を与えよ」という命令なのであり(この本では「注文」と言っているが)、どうも日本人がやると、やはり、どこか及び腰になって、うまくいかないのではないかと思う。
尚、モーアは、最終的に、彼氏に関し、「私にぴったりの彼氏ちょうだい」と注文したが、これが最も良い注文の仕方であったと言う。
宇宙、あるいは天、あるいは神様は我々よりずっと賢いのであるから、細かい部分は、まかせてしまうのが一番である。
良い仕事が欲しいなら、「良い仕事を与えたたまえ」で良いのだが、「良い仕事あれ」「良い仕事来たれ」と、権威者らしく言った方が良いと思う。
これが叶う「祈り」なのである。
無論、傲慢になってはいけないが、権威者でもなければならないのである。
敬いつつ、堂々、宇宙に要求する・・・つまり、命令するくらいの気合いがなければ、願いは叶わないかもしれない。








  
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