正義感がなければ、悪魔に魂を売らないと引き寄せは出来ない。
ところが、子供に正義を裏切ることを教える親や教師が多い。
もちろん、そんな親や教師だって、その親に、正義を教えてもらえなかったのかもしれない。

ダスキンの経営理念の中に、
「自分に対しては、損と得があらば、損の道をゆくこと」
という言葉がある。
「自分に対しては」と書かれていることに、ちょっとにやっとする。
でないと、会社の損になってしまうことを勝手にやってしまう馬鹿がいるからだ。

ただ、私は、「損か得か」ではなく、「正義の道を行く」の方が良いと思う。
そして、正義の道は、大抵、自分に対しては損なものだ。

私が小学2年生の時、テストの採点された答案用紙を見たら、不正解なのに正解になっていたので、私は教師に報告した。
勇気を振り絞ったというよりは、褒められたかったのかもしれないと思う。
しかし、私の報告に、教師はブスっとした顔で、何も言わずに、丸をバツに付け直して減点しただけだった。
そりゃ、賢くない部類に入る生徒に間違いを指摘されたら気分が良くないだろう。
それなら、親に褒めてもらおうと思って、このことを親に言うと、こっちはモロに怒られた(笑)。
完全に馬鹿扱いだった。

そういえば、ちょっと似た、こんな話がある。
有名な宗教家の五井昌久さんが子供の時は、戦争中で、貧しい家が多かった。
そこである時、学校で、今着ているものの他に服がない者に、服が支給されるということがあった。
教師が、「今着ているより他に服がない者は手を挙げろ」と言った時、五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を挙げなかった。
当然、服はもらえない。
五井さんが家に帰って、そのことを言うと、親には怒られ、きょうだいには馬鹿にされた。
そういえば、裕福な家の子も手を挙げていたことを、五井さんは思い出した。
その子は賢く、五井さんは馬鹿だということになるのだろう。

五井さんは最後まで正義を貫いたので、神様に選ばれたようだが、私はそうではなかった。
そして、五井さんには、当然ながら強力な引き寄せの能力があり、切羽詰まった時も、少しも慌てず、実際、必ず必要なものが与えられた。

アルゼンチンの英雄的サッカー選手マラドーナの、伝説的な「神の手ゴール」をご存じだろうか?
敵のゴール前、超人的な5人抜き(5人のディフェンスを次々かわした)の後、マラドーナがゴールを決めたのだが、実は、手でボールをゴールに押し込んでいた。
その時は審判に気付かれずにゴールになったが、後でビデオで見たら、明らかに手で押し込んでいた。
マラドーナが気付いていないはずがないが、もちろん、審判が認めているものを覆しても、誰も褒めてくれないどころか、強い非難を受ける可能性の方が高い。
サッカーは、特に当時は、スポーツではなく戦争である。
戦争に正々堂々などない。
マラドーナが間違っている訳ではない。
だから、後で、手で押し込んだことを指摘されたマラドーナは、おそらく堂々と、「神の手ゴールだ」と言い、この言葉が有名になった。
だが、私は、サッカーが嫌いになった。

野球でも、バッターが、ピッチャーの投球が自分の身体に当たっていないのに、当たったフリをしてデッドボールにすることがある。
それは、称賛はされないだろうが、愉快だと思われることはあっても、「卑怯だ」と非難されることは、まあ、ないと思う。
プロ・スポーツにおいて、勝利は義務であり責任なのであるから、立派とまでは言わないまでも、悪いとは言えないかもしれない。
しかし、どこかモヤモヤとはする(笑)。
すると、こんなことを思い出す。
『あしたのジョー』というボクシング漫画で、超一流ボクサーのカーロス・リベラが、レフェリーに見つからないよう、肘打ちで相手をKOし、矢吹丈は激怒して抗議すると、白木葉子は、
「カーロスだから出来る高等反則よ」
と言い、丈は嫌悪感を見せた。
あの不良少年、丈が、随分、クリーンになったものである。
いや、丈がなぜ怒ったのかは分かる気がする。
カーロスが肘打ちでKOした相手は、実力がカーロスよりずっと下だった。
強い相手なら強い相手で、卑怯だからやってはいけないが、弱い相手にやれば、それは、弱い者いじめだ。
マラドーナだって、もし、子供相手に「神の手ゴール」をやれば、間違いなく悪いことだ。

世の中は厳しく、きれいごとを言っていられない場合もあり。時には、ルールを外れても勝たねばならないこともある。
だが、それも限度がある。
その中でも、弱い者いじめだけはやってはならない。
そして、弱い者いじめをやるような者で、つまようじ1本でも引き寄せられる者はいないのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ