普通は、正義、良心、信念がなければ、成功することは出来ない。
だが、いつか、正義が公式化したり、ファッション化したり、商業化したり、そして、プロパガンダ(特定の主義。特に政治的な主義)化する。
そうなると、もう、腐っていく一方だ。

正義や信念を磨くと、気持ちが良いし、世の中でも成功するし、幸運になる。
それで、「こりゃいいや!」とか「これで人々に幸せを与えられる」と思い、善意で正義や信念を大いに宣伝し、広めていくのだが、やがて、御利益や、称賛にばかり心を惹かれ、おかしくなっていく。
そして、「かつては、この団体は、理想を持っていたが、今の幹部達は堕落した」などという、よくあるパターンに陥る訳だ。
悪の団体なんてものは、元々は、正義の団体から始まったものが多いのである。

そこで、老子は、正義と信念で力をつけた者達に正しい道を教える『道徳経』(通常は『老子』という書籍)を説いた。
だから、『老子』は君主のための教えだと言われる。
だが、荘子は、老子の教えの根本的な正しさは認めつつも、立場や正邪に囚われない、さらに大きな道を説いた。
そのため、「老子は嘘つきで、荘子は大嘘つきだ」と言われる。
老子は、嘘つきというよりは、方便を言ったのだが、荘子は、普通の社会規範から言えば、滅茶苦茶に思えることを言っている。
だから、荘子は、一見、正義、信念、良心をあざ笑うようなことも言う。
「正義は正義と言った時点で正義ではなくなる」
といった感じだ。

荘子は、一番純粋で正しく、読むと憧れるが、力のない者が荘子の真似をしても、宗教かぶれした変な人でしかない。
かといって老子の真似をしても、誇大妄想狂だ。

『荘子』の最初の部分である『逍遥游』編の3話に、こんな話がある。
「ある山に神人がいる。雪のような肌をし、身体つきは乙女のようにすらりとして美しい。ものを食べず、清らやかな露を飲む。神人は何をするでもなく、ただ、雲に乗り、竜にまたがって、気ままに遊んでいるが、それでいて、存在するだけで人々に幸福をもたらす。いかなるものも(人も自然も)神人に敵対出来ない」
私は最近気づいたのだが、『荘子』は、そんな神人になるための方法が書かれている。
もちろん、神人になろうという欲望を持ってなれる訳ではないが、神人を敬う気持ちを持てば、超能力くらいは目覚める。
そして、この神人を心に置けば、正義や信念や良心につまづいてしまうことがない。
だから、本来、『荘子』の世界とまるで違う、ビジネスや政治など、闘争の世界にいる者にだって、『荘子』の愛読者が多いばかりか、中国の古典の中で『荘子』が一番だと言う大物も少なくないのである。
『荘子』の中で、孔子は散々こき下ろされているが、孔子は、老子すら、自分とは桁外れと言っているのだから、老子から制限を外した荘子であれば、正義と信念と良心の道を究めた孔子すら小馬鹿にするようにからかうが、さりとて、普通の人が孔子に及ばぬことも認めている。

今や、中国も、その他の国の指導者達も、孔子にも遠く及ばないばかりか正反対の場合が多い。
(トランプ大統領で老子レベル。小国には孔子レベルも多い。日本は非常に残念な状況)
それで、世の中はかなり危うくなっている。
だが、いかなるものも、荘子の神人にはまるで歯が立たない。
『荘子』を読んで、神人の道をぼんやりとでも掴んでおけば、まあ、心配はいらないだろう。
ところで、『荘子』の書籍には、著者が個人的見解を並べ立てたものが多く、私はそういったものは好きではないので、訳者が出しゃばっていないものを下に紹介する。








  
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