混じりけがなければ神である。
個性のことをカラーと言うことがあるが、どんな人間にも、なんらかのカラーがある。
個性が強いことは、良いこともあるが、度が過ぎると悪くなる。
個性のない人間が蔑まれることがあるが、個性のない人間などおらず、むしろ、個性のなさが欠点とされる者は、どこか好ましくない個性を持っているのだ。
もし、本当に個性のない人間がいれば・・・いや、絶対にいないのだが、それに近ければ、畏怖するほどの神聖さがあるに違いない。

イチローという野球選手は、どこが一番凄かったのかというと、トータルバランスで、ある意味、非常に無個性な選手だった。
脚が速いとか、レーザービームと言われる遠投が凄かったと言われるが、特に筋力が強い訳ではなく、むしろ、脚の速さを阻害する個性、遠投を阻害する個性がなかったのだと思う。

ソクラテスが、人気哲学者のヒッピアスに、「美とは何か?」と尋ねたことがある。
ヒッピアスが「美しい少女だ」と答えると、ソクラテスは、「いかに美しい人間の少女でも、女神の中に入れば美しくはない」と言い、ヒッピアスも、それはそうだと同意した。
なぜ少女が美しいのかというと、大人の女性に比べて個性がないからだ。
そして、特に少女と言わなくても、究極の美女の顔というのは、全ての女性の顔を平均化した顔で、全くの無個性が最も美しいことが、デジタル技術で実証出来る。

無個性は純粋であり、純粋であれば、神がそのまま出てくるので無敵であり、最も美しい。
美の女神ヴィーナスの絵は多いが、どれも、画家の個性が出ていて、実は醜い。
画家が個性を消せば消すほど、本物の美の女神に近付く。
そして、本物の美の女神は、全くの無色透明だ。

人間の個性は自我が作る。
よって、自我を消せば神になる。
つまり、無になれば不可能はなくなる。

では、純粋になるにはどうすれば良いだろう?
ここが核心である。
キリスト教では、3が神秘数と言われているが、実を言えば、キリスト教以前から・・・つまり、ギリシャ神話の時代からそうだった。
アリストテレスは、「2は両方とは言うが、全部とは言わない。3つで全部と言う」と、3の完全性を説明した。
あらゆる色がRGB(赤、緑、青)の混合で作れるようなものだ。
そして、人間存在というのは、身口意(身体、言葉、精神)の3つで成り立っている。
仏教では、純粋な存在である仏になるために、そのどれかを停止させることで、3つ全て停止させるというのがカラクリだ。
座ることで身を止め、お経を唱えることで口を定常化させ、仏や仏国土を観想することで精神を定常化させる。
しかし、仏教以前のヒンズー教の時代から、マントラ(真言)を唱えれば、身口意の全てが純粋になることが分かっていた。
だが、この簡単なことが隠されたか、退屈に思えるので嫌われたのである。
よって、呪文、マントラ、念仏、真言、ナーマスマラナ・・・何と呼んでも構わないが、呪文のようなものをずっと唱え続ければ純粋になる。
つまり、神(あるいは仏)に近付くのである。
尚、ラマナ・マハルシが指摘したのは、最も効率よく純粋になる言葉は「私」である。
ずっと「私」と唱えると、悟りを開くということもあるが、超人化するのである。ただ、本人にそれを誇る気がないので分からないのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ