私は、「宗教を信仰している人」というものにマイナスのイメージを持っていた。
これは、極端に言えば、ロックをやっている人が少ない時、その少数のロックをやってる人が皆ダサかったら、「ロッカーはダサい」と思ってしまうようなものだ。
日本は無宗教の国と言われ、あまり真面目に信仰を持っている人は少ないが、その少数の熱心な信仰者に対する悪いイメージがあるのだろう。
だが、その悪いイメージ作りに、テレビや映画や漫画などが加担しているところがあると思う。
つまり、テレビのニュースで、過激な信仰者や危険な信仰者ばかりを取り上げたり、ドラマや漫画で、変な宗教者を登場させたりすることが多いのだと思う。
オウム真理教の例はあまりに極端だが、新興宗教の教祖が、悪い意味であまりに常人離れしていたり、信者の活動も不安を感じさせるものだったり、また、あくまで特殊な例であろうが、教祖や信者が、犯罪、あるいは、道徳的に問題のあることをした話が、クローズアップされることが何度もあり、日本人の宗教に対するイメージはネガティブになり勝ちなのだと思う。

だが、キリスト教国では、信仰を持っているのが当たり前で、無神論者はむしろ変な目で見られるし(日本人全体が変な目で見られることもある)、日曜ごとに教会に行くのは立派なことだと思われている。
子供が、教会の聖歌隊に入るとか、教会のボランティア活動に参加するのは、称賛されるというのではなく、せいぜいが「ちょっと真面目な子」と見られる程度だ。
ところで、キリスト教の牧師や神父らは、信者と親しく普通に接するが、日本では、仏教のお坊さんや神道の神主さんらは浮世離れして近寄り難いことも、マイナスイメージになっていると思う。
ところが、そこらを自覚して、お坊さんが親しみ易い庶民的なことをやると、これがもう凄く変なのである(笑)。
つまり、これまで閉鎖的な世界にいたので、現代的なセンスがなく、「ナウいこと」をやると甚だしく無理があるし、はっきり言って考えが足りないので、人々がついてこない。
閉鎖的なら閉鎖的で良いのだが、その閉鎖的なものがまず良くないと駄目なのに、それが全然良くないということに、お坊さんの方が気付いていないのかもしれない。
私は、良いお坊様も知っているが、言っては悪いが、やはり世間知らずでズレたところがあり、「そんな考え方、通用しないよ」と思うことがよくあるのである。

だが、最近、私は、宗教に対するイメージが変わった。
「信仰、格好良いぞ!」と思うようになった。
それは、トランプ大統領の弁護団チームのリンカーン・ウッド弁護士や、副大統領のマイク・ペンスを見ていて、そう思うようになった。
彼らは、敬虔なキリスト教徒で、信仰に基づいた言動が、立派で感銘を受けるに足るものであり、特に感動的と感じる活動が、信仰あってこそと思うのである。
宗教だけやってるというか、宗教しかやったことがないというのではいけないと思われるのだ。
良い牧師や神父は、一般社会で活動していたり、少なくとも、一般社会との交わりが大きいのであり、日本のお坊さんや神主さんのように、社会との間に壁を作ってはいないのだと思う。
いや、昔のお坊さんや神主さんらは、決して、お寺や神社に閉じこもってはいなかったと思う。
これは、僧侶や牧師などだけでなく、教育者にはっきり当てはまることで、「先生しかやったことがない先生」は、はっきり言う。全く駄目だ。
そんな人間に、子供を教える力は全くない。
教育問題の根本は、ここにあり、今の学校、教師は全く不要で、百害あって一利なしである。
社会で実績を上げた人間だけが、子供達を良い方向に導けるのである。

ペンス副大統領は、アメリカ人の中でも敬虔なキリスト教徒で、普段の言動や政治的な話の中でも、神や聖書のことを話すことがあるが、それが少しも不自然でなく、適切に思わせるのだと思う。
トランプ大統領ことは誰でも知っているが、ペンスの名や顔を知らない人は多いだろう。
いつの時代も、副大統領というのは、あまり目立たないもので、「副大統領が来日」なんてニュースがあっても、それほど関心を持たれない。
ペンス副大統領も、やはり、人気がある訳ではないが、極めて優秀であると同時に、大変な人格者として知られ、非常に尊敬されていると聞く。
彼が、熱心なキリスト教徒だということは、多くの人が知っているが、それは普段の行いに現れているからだろう。
彼は、妻以外の女性と食事をすることもないという。
そんな彼は、トランプ大統領を救世主のごとく尊敬しているらしい。
人権弁護士として有名なリンカーン・ウッド(一般にはリン・ウッドの名で知られているかもしれない)は、大胆な言動もよくするが、キリスト教の信仰があるせいか、それらにも不思議な説得力を感じさせることが多い。
例えば、最近では、「オバマも、クリントンも、バイデンも刑務所送りになる」といった、とんでもない発言もしたが、勿論、弁護士としての実績あってのことだろうが、敬虔なキリスト教徒であるという理由からも、彼が言うからには、道理に外れた感じはしない(もちろん、それで、理由もなくオバマらが悪人と思い込む訳ではない)。

法然もだが、特に親鸞は、庶民と膝を交えて話し、一緒に働いたからこそ、念仏も本物になった。
「膝を交えて」と言えば、トランプ大統領に、拉致被害者の家族と、膝を交えて話して欲しいと誰かが言うと、どんな英訳だったか分からないが、トランプは、本当に、膝を突き合わせるような座り方で、拉致被害者の家族と話したそうだ。
オバマも、拉致被害者の家族と面談はしたが、オバマと話す時は起立が求められた。
「ご家族にはご高齢の人も多いですから、座って・・・」と言っても聞き入れられなかったという。
一方、トランプの面談の際、「座って良いか」と言うと、トランプは「当たり前だ。ご老人を立たせてはいけない」と言ったそうだ。
実は、トランプも、間違いなく敬虔なキリスト教信仰者である。
主要メディアは、そこらも歪めて伝えているが。








  
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