善、正義は失ってはいけないものだが、悪に染まった者が、悪しきに意図のために、善や正義を声高に、しかも、巧妙に語ることがよくある。
そもそも、善や正義は、黙って行うものであるというのが、本来、正しいのだろうが、あまりに善や正義が廃れてしまった。

やや昔のことだが、英会話学校のテレビCMで、こんなものがあった。
怪我をして倒れている西洋人の男性が、通りかかった若い女性に英語で助けを求めるが、その女性は彼を無表情に見た後、「英会話学校に行こう」と言って立ち去る。
私は衝撃を受けた。
もちろん、冗談のつもりだろうが、これがやって良い冗談だろうか?
そして、このようなテレビCMは他にも沢山ある。
私はコンピューターゲームをやらないが、聞くところによれば、死んだキャラクターが持っている装備を持って行くことが出来る場合が多いらしく、ある漫画家が「罪の意識は感じるが、必ず持って行く」と自虐的に(つまり、道徳的には問題があると自覚しつつ)、漫画で表現していたが、これも、慣れるのは恐いことと思う。
また、ゲームの中で、信じ難いような道徳に反する行為を選択出来る場合があると思うが、それが、年齢制限のない普通のゲームでもありふれているのではないかと思う。
アダルトゲームやアダルト漫画が、必ずしも悪いとは言えないかもしれないが、ナチス強制収容所の残虐な行為と本質で変わらないようなことを当たり前に行えるようなものもあると思う。
そして、規制にさえかからなければ、子供でも見ることが出来る映像や画像の中に、常軌を逸したものや、非道なことすら、ただ面白おかしく表現されていることがいくらでもあり、親がそれを非難しないので、子供が平気で受け取ることが多くなってきた。
それで今や、善悪の区別がつけられない人間が多く、ひょっとしたら、それが大勢かもしれない。
学校では、試験で良い点を取ることが善、点数が悪いことが悪と評価され、道徳的な善悪を軽視するし、そもそも、教師が道徳的な悪を平然と為すのを、私が学校時代にもよく見た。

だが、日本が世界の中では異例なほど安全で、極端な非道がまだ公然と行われないのは、今のところ、善や正義が、それなりに存在するからである。
だが、そのバランスが、今や危なくなっている。
政府、行政機関、教育機関、大企業、マスコミといった豊かなところが急速にそうなってきていて、日本は庶民の中に善が息づく国であったのに、それも失われつつあるように思える。

だが、悪は正義に勝てないし、いかに悪が栄えているように見えても、悪霊に利用され弄ばれているに過ぎないので、悪の誘惑に負けてしまった人間の悲惨さは言葉に出来ないほどだ。
巨悪になれば、頭で考えれば分かる方法で良い思いが出来るが、人間の本性は善なのであるから、心が安らぐことはない。
私は、引き寄せの法則の話も好んでするし、奇跡を起こすことだって出来るが、それは、あくまで正義の支配下にある場合で、言うなれば、引き寄せの法則は善意がなければ機能しない。
悪意があっても、引き寄せに成功するように見えることもあるし、私にもあったが、それはやはり、悪霊の助けを借りていたのかもしれず、大切なものを失ったかもしれない。
自分が善を選べば、そうでない者は去って行く。
また、善でない場所にはいられなくなる。
だが、パスカルが言ったように、「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」のだろう。
プリキュアシリーズの初代作品『ふたりはプリキュア』で、悪の女ポイズニーが、プリキュアの二人に言ったことが忘れられない。
「力のない正義は悪にも劣るのよ」
こんなことを言うポイズニーに、不思議と、ポイズニーの苦しさと隠された善意も感じたのである。








  
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