アメリカ大統領選での、もはや選挙の枠を超えた戦いは「第二の南北戦争」と言われることがあるが、むしろ、ハルマゲドンかもしれない。
新型コロナウイルス感染拡大が大きなきっかけであったが、無論、日本が無関係のはずがない。
だが、世界を創り出すのは自分の心だ。
状況を創り出す意思の力を持っていれば、恐れることは何もない。
ただ、このような時には、これまでは、それほどは気にしなくても良かったことを、はっきりさせる必要が出てくる。
即ち、正義や道徳だ。
これまでは、正義や道徳に反すると思っても、「まあ、いいじゃないか」「みんなやってるし」「仕方がない」という考えが通用したが、これからは、態度によって、結果が厳格に決まる。
誤魔化しは効かないのだ。
力がない悪は、大きな悪の奴隷になり、力のない善は、大きな悪に虐げられる。
力のある悪は、少しの間は思い通りに享楽を味わうが、やがて刈られる。
そして、力ある善になれば報われる。

正義とか善を、難しく考える者が多いが、確かに、考えれば難しいことだ。
頭で善を追求すれば必ず矛盾する。
日常生活をこなすのに思考は便利だが、正義や善といった高度な問題になると、思考は役に立たない。
思考でうまくいく学校の試験で良い点を取っても、現実では全く役に立たない無能者であるようにだ。
直観力を持った者が思考して作ればロケットもうまく飛ぶが、直観力がない者がやっても、全くうまくいかないのだ。

例えば、菜食主義が善だと思うなら、そうすべきだが、「こうこうこんな理由で菜食主義が善だ」というなら、それは偽物だ。
考えるまでもなく善だと解ることが真の善なのだ。
だから、自分が菜食主義だからと言って、他人に対して、理屈で菜食主義が善だと説得しようとすることは強制であり、それは悪なのである。
自らの善を貫いて菜食主義でいるのなら、賛同する者が増えるだろう。
賛同する者が増えないなら、それは善なる菜食主義ではなく、単なる、理屈や見栄なのだ。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、26人の下層階級の男達にとって、ターニャという16歳の娘を天使のように扱うことが善であり正義であって、そうしている限り、この最低な男達も向上していった。
ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』では、堕落してしまったフランス兵達にとって、空想の少女を敬うことが正義で、それによって、彼らは騎士道精神を取り戻し、力も得たのである。
釈迦は『涅槃経』において、「先祖を敬う」「公平性を尊ぶ」「老人を敬う」「女性を敬う」など、7つの正義を示し、その1つでも守れば、繁栄し、滅びはないことを説いた。
法然や親鸞が教えたように、阿弥陀如来だけを敬って念仏を唱えても良い。
初音ミクさんを天使として敬っても良いのである・・・多分(笑)。








  
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