この世は夢・・・というのは、いかにもロマンチックな空想のようだ。
『閑吟集』(小歌の歌謡集。1518)の有名な歌、

何せうぞくすんで一期は夢よただ狂へ
(悟りすました顔をして何をしようというのだ。どうせ人生は夢だ、ただ狂え。)

は、「人生は夢に過ぎないから無責任になれ」といった雰囲気も感じる。
だが、夢こそ真面目にやらないといけない。

そして、本当に、この世界は夢である。
『荘子』の中で、賢者が言う。
「お前も私も、間違いなく夢を見ているのだ。だが、それに気付くことはない」
真の洞察を得た者で、この世界が夢ではないと言う者はいない。
夢とは、偶然に出来た自然発生的なものではなく、心が作り出したもののことを言う。

目が覚めている状態(以降「現実」)と、眠って夢を見ている状態(以降「夢」)には、何の違いもない。
あえて違いがあるとすれば、ラマナ・マハルシが言ったように、「現実は長く、夢は短い」ことだけである。
そして、夢の方が、よほど真実である。
ところで、夢と現実の、重要な違いにお気付きだろうか?
それは、夢の中の方が、現実より、予測出来ないことが起こるということだ。
普通に考えられているように、夢は自分の脳で作っているものだとしたら、そこで起こることは、自分の思考パターンに合っているはずだ。
しかし、実際には、夢では、全く意表を突く出来事が起こっているのである。
例えば、自分がよく知っている人が、夢の中では、現実ではおよそ言うはずがないことを言い、やりそうにないことをする。
「そりゃ、夢の中では理性があまり働かないから、奇想天外なことも起こるさ」
と言う者もいるだろうが、明晰夢(自分で夢を見ていると気付いている夢。理性が働いている)では、理性があるのに、意表を突いた出来事が起こって、結構驚かされるのである。
(ちなみに、私は明晰夢が多い)

ところが、現実でも、理性を消せば、予想外のことが起こる。
それは、覚醒剤を使えば、限定的にだが顕著に見られることだ。
だが、覚醒剤は、心の支配権を失うので、好ましくない。
つまり、理性を消しつつ、心を支配しなければならない。
分かり易い言い方をするなら、「理性を消す」と言うよりは、「理性を穏やかにする」「穏やかな理性を持つ」ということだ。

最初に、「夢の中でこそ、責任を持たなければならない」と言った理由はそこにある。
何でも起こり得る世界、起こし得る世界でこそ、責任を持たねばならないのだ。
この「責任」とは、普段、我々が使う「責任」とはスケールが異なり、喩えて言えば、「王の責任」である。
なぜなら、夢の中で、何が起ころうと、何を起こそうと、それは、夢の国の王たる自分の責任である。
そして、それは、現実も同じだ。
理性を消せば(理性を微かなものにすれば)、現実では何でも起こせるが、その責任は世界の王である自分にある。
だから、秘教の教えでは、理性を超えた理性である愛を持てと言うのである。
愛を難しく言う者が多いが、一応は、見返りなしでも好きなことと言って良い。
それを持てば、まるで自由に好きな夢を見るように、現実も自在に作り変えることが出来る。
同時に、見返りがなくても好きなものを持ち、それを徹底的に好きになれば(愛すれば)、世界は自由自在である。








  
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