駄目なやつはどこにでもいる。
あなたの回りにも何人かいると思う。
「君はちっとも駄目じゃない」
などときれいごとを言っても、駄目なやつはやっぱり駄目だ。
そして、駄目なやつが浮上する(要は駄目でなくなる)ことは、まずない。

確かに、こんな話がある。
コリン・ウィルソンの『超越意識の探求』という本のあとがきにあった話だ(と思う)。
本当に駄目な青年がいた。
ある時、その青年が「僕って本当に駄目だ」と口にしたところ、そばにいた男が、
「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
と言った。
それを聞いた青年は、何か感じ、「自分でそう思っているだけ」という言葉をずっと考え続けた。
それで彼は駄目でなくなり、誰にも尊敬されるようになった。

この話は曖昧過ぎる。
抽象的過ぎて使えない。
そこで、分かるように、使えるように言い直す。
まず、概要を言えば、その青年は、自信を持った。それだけである。
自信とは、文字通り、自分を信じることであり、それは、自分の能力や自分の人間性を信じることである。
そんな自信を「自己信頼」と言い、エマーソンの有名な本のタイトルでもある。
しかし、エマーソンは、ただ、「自分を信じろ」と言うだけで、「どうすれば」は言わなかった。
18歳でハーバード大学を卒業出来るような優秀な彼には、「どうすれば」が必要だという発想が無かったのかもしれない。

ところで、そもそもだが、駄目なやつでも、自分が駄目だということが分かる殊勝(けなげで感心)な者は少ない。
だから、駄目なやつは、徹底的に叩き落されないと駄目なままなのだ。
今は、学校でも会社でも、駄目なやつを、甘やかすかいじめるかの両極端しかない。
まあ、甘やかすことは1つの無難な手ではあるのだが、それでは、駄目なやつは一生駄目なままで、幸せになれない。

問題は、さっきの青年は、どうやって、自分が駄目でないと思うことが出来た・・・つまり、自信を持てたかだ。
私は、そんな例を2人、知っている。ただし、10代だ。
2人とも、少なくとも1年の修行の末、1つのことで実力を持つことが出来た。
とはいえ、それは、野球で言えば、高校野球のそこそこの選手でも、草野球では抜群に上手いようなものだ。
けれども、その程度で自信は持て、2人とも、実に威風堂々としていた。
この2人は稀に見る幸運だったと言えるが、これでは、うまくいっても、小市民として平凡に生きていけるだけだ。

一方、あの青年は、社会の実力者からも一目置かれているようなので、レベルが違う。
これと似た青年の話が、藤本憲幸さんの『秘法ヨガ入門』の最後にあるが、内容は略す(以前、書いたことはある)。

自信がない者に対し、「出来ると思っても、出来ないと思ってもどちらも正しい」という、ヘンリー・フォードの名言でお茶を濁したがる者も多いが、それでは、全く有効性はない。
そんな言葉を聞いて、自分でなんとかするような者は、最初から駄目じゃない。
つまるところ、答はこうなのだ。
「諦めろ」
それは、プロレスラーとリングの上で勝負し、マットのホコリを嫌というほど舐めさせられて、自分は全く敵わないと認めるようなものだ。
そして、それが出来れば、ピストルで1発で勝てる。
だが、弾丸の火薬を発火させて爆発力を生み出すのは、あなたの仕事ではない。
ただ、あなたは、ピストルが素晴らしいことに感謝するだけだ。
同じように、自分の内にある巨大な力崇め、代わりに戦ってくれることに感謝するのだ。
その内なる力は、既に多くの恩恵を与えてくれている。
住む家があったり、着る服があったり、ネットを見ることが出来る目があったりだ。
それらに感謝すれば、すぐに、もっと良いものをくれるだろう。








  
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