私は以前から、数百冊の著書がある仏教学者のひろさちやさんの本の中でも、私が思う最高傑作は、ひろさちやさんの若い頃(と言っても47歳位だが)の著書『空海入門』(1984)と思う。
ただ、この本は、仏教の専門家(僧侶、仏教学部の大学教授等)には、おそらく評判が良くないような気がする。
また、この本には、ひろさちやさんの独断もかなり入っている。
しかし、この時、ひろさちやさんには、空海が乗り移っていたように感じられ、渡部昇一さんも、この本(祥伝社版)のカバーの推薦の言葉に「この本で空海に開眼した」と述べておられる。

まず、この本の良いことは(専門家的には悪いところになるかもしれないが)、ひろさちやさんは、空海は、自分は仏陀(釈迦と同等の存在)だという信念を持っていたということだ。
もっとありきたりな言い方をすれば、空海は、仏陀になり切っていた、あるいは、自分は仏陀だと深く思い込んでいた。
まさに、「私が価値があると言えば、それが価値になる」と言う、エマーソンの『自己信頼』のごとき信念だ。
※ 「私が価値があると言えば、それが価値になる」自体は、青池保子さんの『エロイカより愛をこめて』の、エロイカのセリフだが、エマーソンも同等のことを述べているのだと思う。

このことから、空海が引き寄せの達人だったことを確信する。
空海が打ち込んだ密教では、世界は精密な曼荼羅(マンダラ)であり、現代でいうVR(仮想現実)世界であることを見抜いた天才によって構築されたのが密教なのであり、それは引き寄せの技術に直結する。
何より、空海の行動自体が、この仮想世界を動かす引き寄せの法則に則っている。
例えば、当時は無事に到着する方が珍しい、唐(当時の中国の王朝)に船で渡る遣唐使の一員になった時も、他の団員が「途中で転覆して死ぬのではないだろうか」と不安に思っている中で、空海は引き寄せマスターの貫禄を見せ、超然としていた。
引き寄せでは、目標は既に成ったと見なさなければならない。
だから、空海は、唐に着くのは当たり前であり、不安など全くなかったのだ。
その揺るぎない自信は、自分が仏陀であるという信念からも来ている。
つまり、「仏陀である私が唐に行きたいなら行けて当たり前。さあ、次はインドにでも行くか」と思っていたのだ。
引き寄せが下手な者は、目標を達成したという視点に欠けるのである。
だから、目標を達成したら、それで終わりと思っているので、目標に生命力がない。
例えば、一千万円が目標としても、それを得て何をするかという発想がないので、情熱が起こらない。
しかし、空海は、唐に行って中国の仏教を学んで、もっと仏教の理解を深めようというのだから、そもそも、唐に着くこと自体は、大したことではない。
やはり、着いて当たり前なのだ。

ひろさちやさんは、仏陀になり切るのはどうすれば良いかというと、仏陀の真似をすることだと書いている。
仏陀らしく話し、仏陀らしく飯を食い、仏陀らしくクソをする・・・だ。
尚、最も効率が良いのは、私が今朝書いた通り、「仏陀らしくあくびをし」「仏陀らしくガッツポーズをする」ことだ。
仏陀のガッツポーズは、さぞや雄大で力強く、そして、爽やかであろう。
また、仏陀のあくびは、ゆったりとして気品があり、筋肉は力強く振動しているのではあるまいか。

むろん、誰もが仏陀になりたい訳ではない(むしろ少数だろう)。
金持ちになりたければ、金持ちらしいあくびをし、モテモテになりたければ、モテモテに相応しいガッツポーズをすれば良い。
これこそが密教であると私は思う。








  
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