今朝も書いたが、人間は、固定観念を外せば外すほど能力が高くなり、引き寄せの力も大きくなる。
さらに、それ(固定観念を消すこと)を十分にやれば、超能力すら発揮出来ると確信する。

固定観念が便利な場合も確かにある。
例えば、水を飲む時にはコップを使うという固定観念がなければ、いちいちどうやって水を飲むか考えなくてはならない。
また、喫茶店で昼食を食べる時に、何を食べるか無駄に悩む人がいるが、「イタリアンパスタ」と決めておけば無駄なことを考えなくて済む。
だが、「この飲み物には、このタイプのグラスを使う」と、あまりに厳しくこだわる人は、他のことも柔軟に考えられないし、喫茶店のメニューに「イタリアンパスタがない」と言って気分を害する人も、あまり賢い人でないことは想像出来るだろう。
同じように、伝統や風習の良さは認めながらも、それに縛られないことが必要だ。
つまり、守らなくても、本質的には誰の迷惑にもならないなら、どれほど権威的であったり、数千年続く伝統であろうと、必要なら背くことが出来る者が優れているのである。
ただ、権威だから、伝統だからという理由だけで、頑なに従わないことも、固定観念のようなものだ。
学校の教師には、あまりに愚かな者が多いと思うが、優れた教師だっているのだから、教師だからという理由だけで無視することもまた愚かだろう。

最も厄介な固定観念が「不可能思考」である。
それは、価値あることに対し、「自分には出来ない」と思うことである。
固定観念のない極めて優れた人間は、やりたいとおもうことは何でも出来ると信じている。
つまり、やりたいと思うことは全部出来ると思うようになれば良いのである。
それには、まず、信じなくても良いことを信じないことが必要だ。
多くの人は、
「生きていくためには嫌なこともしないといけない」
「お金を稼ぐためには苦労しなくてはならない」
といった固定観念を、普通は、かなり強く持っていることだろう。
そして、この固定観念を持っていると、生きるのは辛いことであり、単なる生活のために苦労の多い人生を送ることになる。

『荘子』は、固定観念を壊すのに良い書物で、百回も読めば仙人になると言われている。
荘子は、固定観念である世間の常識を笑う人であったからだ。
そして、荘子が生きていた2400年前の常識と、今の常識は、それほど違わないのである。

ニーチェやイェイツは、キリスト教が2000年の固定観念になって人類を眠らせていると考えていたと思う。
そんな面も確かにあるが、それは、教会などの宗教団体のせいである。
イエス自体は、固定観念を消すための方法を教えていたと思う。
だから、イエスは水をワインに変えたり、病人を治したり、パンを増やしたり、死人を蘇らせたり、嵐を静めることが出来た。
もちろん、これらの多くは、「誰もが出来ないと思っていることが出来た」ことの象徴と思ってもらえば良いが、固定観念を外すのに役に立つ話と言えると思う。
現代の書物としては、『ヒマラヤ聖者の生活探求』や『アルケミスト』も、固定観念を消すのに、大いに役に立ってくれると思う。








  
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