突然、逆上することを「切れる」と言うが、切れる人には切れる理由があるのだろう。
しかし、その切れる理由が、あまりに小さな下らないことであるなら問題だ。
ところで昔、サッカー・ワールドカップの決勝で、フランス代表で世界屈指の選手であったジダンが切れて、対戦対手国であるイタリアの選手に頭突きをしたことがあるが、これに関し、「あれほどの人でも」と言うべきか、「案外、彼も心が弱いのでは」と言うべきかは分からない。
心理学者の岸田秀氏の著書には、人間であるからには、いかに強く見える人間でも、所詮、心は脆いものだと書かれているが、ジダンのこの事件を思うと、「そうかもしれない」と思う。
また、ジダンもそうだろうが、普段は不動の心を持っているように振舞えても、ピンポイントで弱い部分・・・それを突かれたら、過激に反応せずにいられない何か(「地雷」とか言われることがある)が心の中にあることは多いのだと思われるが、心理学には、そんな「地雷」を持たない人はいないという説もある。

筒井康隆の短編小説『悪夢の真相』では、主人公の中学生の少女は、自分でもなぜかは分からないが、般若の面が怖くて仕方がない。
また、彼のボーイフレンドは蜘蛛が、弟はハサミが怖いのだが、やはり、本人達には、その理由が分からないのである。
だが、分からなくても、理由はちゃんとあるのである。

だから、人間には、どうしても心が乱されてしまうことはあるのだが、だからといって、いつも何かに怯えてビクビクしていたり、得体のしれない不安に苦しめられているなら問題である。
何が問題かというと、それは世間で言われるようなことではない。
それほど心が弱く、不安定であれば、引き寄せの力を使えないことが問題なのだ。
この宇宙は、「気分が良ければ良いことが、気分が悪ければ悪いことが起こる」仕組みになっている。
しかし、心が弱過ぎ、いつも、ビクビク、おどおどしていることが多ければ、それは気分が良くない状態なので、宇宙エネルギーは、心の願いを実現することが出来ないのである。
そこで、滝に打たれたり、長時間、瞑想するような修行をする者もいるが、それで一見、強い心を獲得したように見えても、実際は、そんなことで、それほど進歩するものではない。
宗教的な修行者は、凡人より心が弱い場合も多いのだと思う。俗世から逃げ、寺に隠れて、心が傷付かない場所で修行で自己満足している者も多いからだ。
そうではなく、現実の世の中で苦労して磨かれたり、修羅場をくぐって鍛えられた人なら強そうであるが、そんな人達には、普通の人以上の脆さ(それが上で言った「地雷」とかトラウマと呼ばれるものだ)を持っている場合が非常に多いのである。
特に、英雄的な人間が、あまりに尊大に振る舞う場合は、本人に自覚があるかないかに関わらず、深いトラウマから心を守るためであることがほとんどだ。

さて、では、そうすれば、心が揺らいだ時、気持ちを切り替え、良い気分になり、願いを叶える宇宙の力と同調することが出来るのだろうか?
それはもう、自分で「しゃんとする」しかない。
他には、どうしようもない。
やせ我慢してでもしゃんとし、投げやりになったり、泣き言を言ったりなど、決してしてはならない。
ロオマン・ガリの『自由の大地』では、心が堕落したフランス兵達は、理想の少女が1人いることを想像し、彼女にみっともないところを見せないために「しゃんと」した。
まあ、普通は、親であれば、子供に泣いているところなど、なるべく見せないようにするだろうが、そんな機会が得られるのが、親になる良いところである。
浄土仏教的な考え方では、自分を是非助けたいと思っている、強大な力を持った仏や菩薩がいつも見ているのだから、それを思って「しゃんと」することが出来るはずなのである。宗教は、そんなことを教えるべきなのであり、実際、法然や親鸞は、そんなことを教えたのである(ただ、他のことも沢山教えたので、肝心なことが伝わらなかったかもしれない)。
「しゃんと」して、気持ちを切り替え、良い気分になるのは、自分の責任であり、誰かを頼ることは出来ない。
しかし、それさえ出来れば、後は、神、仏、宇宙の活力・・・何と呼んでも構わないが、そんな強大な力に頼り切って良いのであるし、頼らねばならないのである。
私は、理想の少女がいると想像する方法も、宇宙の活力を頼る方法も大好きである。








  
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