『幸福な王子』で知られるアイルランドの作家、オスカー・ワイルドの『善をなす魂』は、異色で面白いものらしいが、日本人で知る者はあまりいないかもしれない。
(私も直接読んだことはないし、どこに収録されているのかも知らない)
イエス・キリストに救われた人々が、皆、不幸になっていた・・・という、大変にばち当たりなお話のようだ。
死から甦らされたラザロですらそうだ。
分かり易い例として、イエスの「罪のない者から石を投げよ」という名セリフで救われた女を取り上げる。
その女は、夫以外の男とエッチしたことがバレたのだと思うが、当時のその地では、それは重罪で、この女の場合は、投石で殺される死刑ということになったのだと思う。裁判でそう決定された訳ではないリンチとしても、人々の間で正当性が認められるリンチだったのだろう。
そして、今まさに、その刑が実行されようとした時にイエスが現れ、女に石を投げようとする人々に、
「罪のない者から石を投げよ」
と言うと、身に覚えのない者・・・叩いてもホコリの出ない者はいないので、誰も石を投げなかった。
そこでイエスは、
「女よ、お前は許された。もう罪を犯すな」
と言って去った。
新約聖書の福音書の記述はここまでだ。
『善をなす魂』では、その後、その女は堕落し、娼婦にでもなったのだと思う。
女に再会したイエスが、「愚か者」と女を責めると、女は、
「あなたが許してくれたのよ。他にどうしろって言うの?」
と言い、イエスは返答が出来なかった。

どうもね、ワイルドは、この女のように不幸な者に自分を重ねていたのだと思う。
だから、イエスが、この女を本当には救えないように、イエスは私も救うことは出来ないとでも言いたいのかもしれない。
『幸福の王子』だって、一見、美しい話だが、王子による不幸な人々の救済には限界がある上、タイトルとは違い、王子も悲惨になるばかりだった。

その女の話は単純である。
女が石打ちの刑になったのは、女が引き寄せた状況である。
女は夫と不仲だったのだろう。
というより、夫が気に食わなかったはずだ。
それで、いつも気分が悪く、男遊びにうつつを抜かすようになったが、そんな悪い気分の中で、ロクな男を引き寄せるはずがないから、結果、ますます気分が悪くなる。
いつも言うが、この世界は、「気分が良ければ良いことが起こり、気分が悪ければ悪いことが起こる」仕組みになっている。
(いい男、いい女を引き寄せるには、良い気分でいなければならない)
確かに、女はイエスに救われる状況も引き寄せ、救われた時は、気分も良かっただろうが、根本的な解決はされていないので、すぐにまた悪い気分になり、同じことを繰り返すしかなかった。

つまり、人間は、苦しいところを助けられたからって、心を入れ替えるようなものではない。
常に自分の心の状態を監視し、悪い気分に支配されていたら、良い気分になるよう、気持ちを切り替える術を持つことで、好ましい状況を引き寄せるようにならないと、不幸なままだ。
また、気分が良いことと、快楽との区別が付く程度の知恵は持たねばならない。
快楽は苦痛に変わる甘いお菓子と同じで、限度をわきまえねばならない。
つまり、「私はチョコレートを食べると気分が良くなるんです。だから、気分が悪い時はチョコレートにします」と言ったところで、チョコレートは、ちょっと沢山食べただけで気持ちが悪くなる。
もっと賢くならないといけない。
最も良い気分になれる方法は、これもイエスが教えているのだが、願いが叶った状況を想像して楽しくなり、「幸せだ」「ありがたい」と思うことである。








  
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