禅の公案というものがある。
これは、仏教の禅宗における、修行僧を導く手法だ。
修行僧達は、この公案という、短い、摩訶不思議な話の意味を、自分で考えて解明することで知恵を得るのである。
私は、ごく若い時から、沢山の公案の中から、『婆子焼庵(ばすしょうあん)』、『倩女離魂(せいじょりこん)』、『倶胝竪指(ぐていじゅし)』の3つのみ考え続けた。
昔の偉い禅僧や、現代の先生方の模範解答を見たこともあるが、そのどれにも全く賛同出来なかった。
尚、どれも、短くて面白い話である。
ところで、ネットで調べたら、それぞれの公案が、何に収録されている公案かという大切なことがちゃんと書いてないのは問題だ。
そんなサイトに書かれている解答は、どれも、本当に面白くない。
『婆子焼庵』 は『 碧巌録(へきがんろく) 』に、『倩女離魂』と『倶胝竪指』は『無門関(むもんかん)』にある。
なぜ、この3つかというと、 『婆子焼庵』 と『倩女離魂』は、可愛い女の子が出てくるからで(笑)、『倶胝竪指』は単純に面白いからである。

『倶胝竪指(ぐていじゅし)』を取り上げる。
昔、倶胝(ぐてい)と言う名の偉いお坊さんがいた。
倶胝は、どんな相談をされても、人差し指を1本立てるだけだった。
ある日、そこの寺にやってきた人が、その寺の小坊主に、「あなたのところの和尚さんはどんな説法をしますか?」と尋ねると、小坊主は、倶胝の真似をして、黙って人差し指を1本立てた。
それを聞いた倶胝は、小坊主を呼び出し、小坊主の人差し指を切り落とした。
倶胝は、泣き喚いて出て行こうとする小坊主を呼び、小坊主が振り返ると、人差し指を1本立てた。
すると、小坊主は悟った。
尚、この1本指の禅(一指禅)は、倶胝が師の天竜から伝授された秘法である。

ちなみに、この話は実話ではない。
あくまで創作された公案だ。

いかなる聖典だろうが、聖者の話であろうが、真意を理解するには、単純な宇宙の法則から考えないといけない。
宇宙の重要な法則の1つが、私が常に言う、
「この世界では、気分が良ければ、良いことが、気分が悪ければ悪いことが起こる」
である。
いかなる聖典も、そう書いてあるのであり、これが解れば、もう聖典を読む必要はない。
上の、倶胝という僧が指を立てたのは、悩みごとを相談された時だろう。
この、指を1本立てる意味は、「そんなこと考えるな」という意味である。
つまり、相談者は、嫌な問題について熱心に話し、その問題に意識を向けることで気分が悪くなり、さらに、悪い状況を引き寄せているのだ。
指をすっと1本立てると、自分がやっても、目の前の人がやっても、意識はその動作に集中し、見事、意識はその嫌な問題から離れるのである。
意識を悪い問題から外し、好ましいことに意識を向けて良い気分になれば、問題は自然に解決する。
こんな単純で当たり前のことを、指を1本立てるだけで出来るのである。
ではなぜ、倶胝は、小坊主の指を切ったか?
まず、外の人の質問に対し、黙って指を1本立てたのは不適切である。
別に、外の人は、小坊主に悩みの相談をした訳ではなく、意識を小坊主の動作に向けさせる意味なんてないではないか?
この場合、小坊主は、素直に、「はい、倶胝先生は、何を相談されても、人差し指を1本立てます」と言えば良かったのである。
そして、小坊主の指を切り落とすと、小坊主は、痛みに泣き喚いた。
今や、小坊主にとって一番の悪い問題は、切られた痛みである。
そこで、倶胝は指を立てた。
すると、一瞬、小坊主の意識は、自分の痛みから、倶胝の動作に移ったのである。
意識がそこになければ、問題は存在しない。
小坊主は、それが分かったのである。

我々も、指を1本立てることで、悪い問題から意識を外し、悩みを切ることが出来る。
そして、好ましいイメージに意識を向ければ、即座に、良い状況が訪れるのである。
指を立てるのでも良いし、微笑んだり(顔は上げた方が良い)、ガッツポーズをすることの方が、良いイメージが浮かび易いので、より良いかもしれない。
尚、禅の公案の考え方として、発明家の中山正和氏の『瞑想と潜在能力―"直観瞑想"で眠れる才能を呼び醒ます 』が面白かった。
引き寄せの法則の実例と、その科学者らしい解説も良かったと思う。








  
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