イエスより先に現れ、イエスの活動の準備を整えた「洗礼のヨハネ」と言われる人物がいたことが、新約聖書の福音書に書かれている。
イエスは、ヨハネのことを、「天では一番下」と言いながら、「地上では最も偉大」と言った。
ヨハネの第一の教えは「悔い改めよ」だった。
「悔い改める」とは、自分が愚かな人間であることを自覚し、善い人間になる決意をしろという意味と言って良いだろう。
それなら・・・私は、ヨハネがそんなことを言ったのは嘘だと思うのだ。
つまり、福音書(あるいは新約聖書)は改ざんされているのだろう。
考えてみれば分かると思う。
欲張りで、自己中心的で、怠惰で、不親切で、助べえな人間(つまり、我々普通の人間だ)が、「お前は全然アカン。反省せい」と言われて、「はい、分かりました!ちゃんとした人間になります」なんて言うはずがないじゃないか?
そんな偉そうなことを言われたら、「ほっとけ、ボケ!」と言い返すなら、まだマシで(これなら、多少は自分はダメダメという自覚があるからだ)、普通は、「失礼な!私のどこが自己中だ」とか、「ワレ、頭おかしいんとちゃうか!?」といった反応しか得られないだろう。
ここらへんは、今も昔も、東洋も西洋も、そんなに変わらない。
じゃあ、ヨハネは本当は何と言ったか?
「悔い改めよ」ではなく「気持ちを切り替えよ」と言ったのだ。
つまり、圧制の中、民衆は皆、腐り、暗い気分になっていたのだが、気持ちを切り替えて、良い気分になれることをしろと言ったのである。
ではなぜ、この言葉が書き換えられたのか?
それはもう明らかだ。
数千年の昔から、支配者というのは、人民のマインドを憂鬱で不安な暗い状態・・・一言で言えば、悪い気分に陥らせることが、最も効果的な支配の方法とはっきり心得ていたのだ。
悪い気分の人間には力がなく、よって、恐れる必要が全くなく、楽々支配出来ることを知っていたのだ。
(フランス革命の場合は、民衆に力があったというよりは、快楽に耽った王侯貴族が帝王学を忘れてしまっていたのだと思う。)

だが、そこにヨハネが現れて、「気持ちを切り替え、良い気分になりなさい」と教えるのだから、権力者達は慌てた。
ただ、民衆は、これまでの洗脳によって、ヨハネに反発することは分かっていたので、民衆の反発者を煽り、ヨハネの教えを無効化し、さらに、罪をデッチ上げてヨハネを捕え、殺した。
ヘロデ王の妃へロディアが、娘のサロメをそそのかして、ヘロデ王にヨハネの首を要求したという聖書の話は、多分、これもデッチ上げと私は思う。
そして、いよいよ真打のイエスが、人々の気分を良くする教えを、ヨハネと比較にならないほど巧みに説いたので、イスラエルを支配していたローマ帝国を激怒させ、イエスは処刑されてしまった。
無論、イエスは見事な防戦を見せたが、普通の人には分からないような理由で、十字架に甘んじたのである。
これが真相と思う。

宇宙は、人間の気分と同調し、気分が良い人には、さらに気分が良くなる状況を与え、気分が悪い人には、さらに気分が悪くなる状況に陥らせる。
その真理を知ることが許されるのは、支配者だけであった(必ずしも強欲のためだけではなく、それも民衆の平和の手段と考えていたかもしれないが)。
それを、ヨハネ、イエスがバラそうとしたのだから、支配者によってイエスらは排除されたが、実は、イエスの良い教えの一片は、福音書や外伝の中に細々と残ったのである。
我々は、イエスの高貴で親切な志を無にしてはならない。
今も、支配者達は、この教えを隠そうとしている。
しかし、もうバレつつある。
我々は、力を得なければならないのである。
尚、上に書いたことを知って福音書を読むと、よく理解出来ると思う。








  
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