ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』には、100万ドル(約1憶円)を引き寄せるのも、1ドル(約百円)を引き寄せるのも、全く違いはないと述べられている。
また、斎藤一人さんも愛読していると言われる(実際、斎藤さんの著書の中に、極めて似た内容が書かれている部分があった)『マスターの教え』の中で、マスターが客船の最も豪華な部屋を使っている時、こんなことを言っている。
この船の船長は、船長という仕事に相応しいが、船主になるのは、とても無理と思っているかもしれない。しかし、船長と船主の違いは、呼び名の違いに過ぎないと言い、船長がその気になれば、簡単に船主にもなれる。
そして、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、チベット、インドで、超人的なマスター達としばらく一緒に過ごしたアメリカの調査隊の1人が、「マスターこそ、本来の人間の姿。人間が、地上を這う虫のようなものであってはならない」と言い、マスターと同じことをやろうと言い出す。そして、皆が、実際に、アメリカ等での常識では奇跡としか言えないことを楽々と行う。

これらは、私には非常に納得出来る。
なぜなら、私はある意味、100万ドルや客船を得る以上に難しいことを平然とやったことがあるからだ。それも、何度も。
その1つが、テレビ放送のコントロールだ。
最近、私はテレビドラマというものを全く見ないので、今、どんなものがあるのか分からないが、例えば、数年前に放送されたドラマのある回を、何度も見たいと思ったとする。
そんな場合、今なら、Amazonプライムビデオを探したり、DVD化されていないかお店に探しに行くのだろうが、私が子供の時は、そのようなものはなかった、あるいは、あっても、存在を知らなかった。
それで、どうしたのかというと、その見たいドラマの特定の回が放送されることを期待し、録画リモコンを握っていたのである。
「何、この阿呆」と思うだろうが、それで、いつも、さして待つことなく期待通りに放送され、楽々、録画したのだった。
その時のやり方を再現出来れば、相当な奇跡現象を起こせるだろう。
で、どうやってやったかというと、ただ強く期待しただけだった。
頭の中で、「放送されよ」と念じた訳でもない。
つまり、目標が分かっていたら、言葉など不要である。
例えば、好きな女の子がいて、「A子さんを彼女に出来ますように」とか、結婚したい男性がいて、「B男さんと結ばれますように」といった祈り言葉を使うというのとは違う。
別に言葉にしなくても、具体的な願いははっきりしている訳だから、「願う」「期待する」という精神行為をすれば良いのである。
受験に合格したい時も、「〇〇大学に合格出来ますように」「〇〇大学に絶対合格する」と言ったり思ったりは、ちょっとどうかと思うのだ。
と言うのは、言葉にすると、どこか思念にノイズが混ざるように感じるのだ。

非言語で願う・・・という感覚は、そんなに難しい訳ではないと思う。
例えば、私は、子供の時、向こうを向いている人を、声も音も出さずに振り向かせることが出来るのは、当たり前だと思っていた。
そして、それをする時も、決して、頭の中で「振り向け」と言うのではない。
ただ、振り向くことを期待するだけである。

しかし、どうしても、「非言語で願う」感覚が分からないなら、こうすれば良い。
願いがイタリア旅行とする。
それなら、まず一度、頭の中で(口に出したり、紙に書いたりしても良い)、「イタリア旅行に行く」と言い、その感覚を覚えるのだ。
覚えていないと思っても、もう願いは分かったし、実際はその感覚を覚えているので、それをただ、願えば(期待すれば、求めれば)良い。
その願いの想いを込めて、笑顔やガッツポーズをすれば良い。

分からないところがあれば、ご質問をどうぞ。
多分、個々に、あるいは、すぐには答えないが、よく考えて、改訂版を出そうと思う。
その意味、質問は歓迎する。








  
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