人間は刺激を受けなければならない。
しかし、歳を取ると、刺激を感じ難くなり、強い刺激ばかり欲しがるようになる。
それは、こんなことと似ている。子供の時なら、安いお菓子でも美味しいと思って喜んで食べるが、どんどん良いお菓子を食べていくと、贅沢なお菓子でないと満足出来なくなる。しかし、贅沢なお菓子とは、過剰な味付けがしてあるもので、お菓子としてはやり過ぎなのだ。では、お菓子に関して、子供の時のような状態に戻る方法があるかというと、それは簡単だ。
単に、お菓子を断てば良い。
1年もお菓子を食べなかったら、どんなお菓子も美味しいと感じる。
同じように、過剰な刺激を避けていれば、繊細な刺激に、驚いたり、感動するようになる。

金持ちの中には、刺激を求めて時間やお金を投資する人がいるが、そんな人達が陥り易いのが、求める刺激がどんどん過激化し、思考も感性も破壊されてしまうことだ。
そんな人の中には、奇病にとり憑かれる者が多い。
賭け事も、刺激を求めて行うものであるが、初めは千円賭けてもドキドキしていたのが、お金が出来てくると一千万円賭けてもドキドキしなくなる。
ギャンブルの顧客が刺激を感じる額をどんどん大きくさせていくことが、賭博ビジネスなのである。
そして、なるべく早く顧客に全財産をつぎ込ませ、それを全部奪ってしまうことが、賭博屋の最重要事項なのだろう。
あなたは、悪い賭博屋のカモである哀れなギャンブラーのようなものになってはいけない。

人間は、適切で良質な刺激を、長く受け続けるようにしなくてはならない。
本当に賢い人は、子供が喜ぶようなもので、子供ほどではなくても感動するのである。
そのためには、野蛮な強い刺激に気をつけ、それを避けることである。

なぜ子供が刺激を受ける必要があるのかというと、成長のためだ。
では、大人はどうかというと、やはり同じなのだ。
子供は、刺激を受けることで、知識や知恵や技能を身につけて成長するように見え、大人は、刺激を受けることで、余計なものを削ぎ落として成長するように思える。
しかし、その実体は同じなのである。
共に、内にある叡智と通じることが最終目的なのだ。
だから、子供だって、良い刺激を受け、何か出来るようになることで、内なる神に気付く。
大人の場合も、そのような場合もあるかもしれないが、むしろ、刺激によって、偏見や固定観念を捨てることで、内なる神に気付くのである。

例えば、『荘子』は、適度な刺激を与えて大人の固定観念を壊し、内なる叡智に近付かせる。
だから、自分では気付かない場合が多いが、『荘子』を読むと、超能力が発揮出来るようになるのである。
ところが、『荘子』は、子供にとっては当たり前の世界なので、あまり刺激にならない。しかし、大人化した子供の場合は、やはり有益なのである。
神話、昔話、童話も、賢く読めば、大人にとって、適度な刺激になる。
もちろん、適切な刺激を与えてくれる書物を広い心で読めば、好ましい刺激になるだろう。逆に言えば、どんな良い書物も、偏見に満ちた心で読めば、害になることはあっても益はない。













当ブログオーナー、KayのAI書。
決して、教科書のような本を書く意図はありませんでした。
機械学習(ディープラーニングはその高度なもの)を、脳の機械学習的な機能を利用して、柔軟に、応用が効くような形で、自然に習得出来るようなものにしようと考えて書きました。
数学もプログラミングもAI理論も不要で、それらのものより、AIに推測させるために適切なデータの考え方や、何を予測させれば難しい問題を解決出来るのかといった、普通の人にとって実際的なことを、しっかり身につけていただこうと思いました。
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ