今月1日だったか、アメリカのトランプ大統領が、セント・ジョーンズ教会前で聖書を掲げるパフォーマンスを行った。
それを見て、私は、別に奇異だとは思わなかったが、何の意味も見出せなかった。
早い話が、キリスト教徒ではないからだ。

私は、聖書の価値を直接には全く感じない。
ただ、キリスト教徒にとっては、重い価値がある可能性が高いことを認識しているだけである。
よって、自分にとっては、何の価値もなくても、決して、聖書を軽々しく扱ったりはしない。
これは、コーラン、仏教経典、その他の宗教の聖典に関しても同じだし、また、私は、それらの間の優劣を全く考えない。
つまり、私は無宗教ということになる。
いや、日本人は「おかげさまで」「すみません」などの言葉の中に、神道の信仰を持っているという人もいるが、私は、なんとかの節句も、七五三も、初詣も、他の人がやることに関しては、1ミリの否定もしないが、私には関係がない。

それでは、日本の神に守ってもらえないかというと、それは筋が違う。
例えば、毎週教会に行き、教会に寄付はするが自己中心的で冷酷な人間と、聖書を読んだことがなくても、親切で思いやりがある人間とでは、神様はどちらを守るだろうか?
もし、神様が本当にいるなら、間違いなく後者であるはずだ。だから、私は、一切の信仰を持たないし、善良になるのは無理としても、せめて邪悪でなく、結果的には他人に害を為すことは避けられないとしても、積極的に悪いことはしないことにする。

昔、アメリカのご婦人だったかもしれないが、新渡戸稲造に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問い詰め、悩んだ新渡戸は「日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書き、これが日本語に翻訳されて、日本でも読まれるようになった。
しかし、両方(その婦人と新渡戸)ともおかしい。
宗教がなくても道徳は教えられるし、武士道なんて恐ろしく曖昧なものを立てると、解釈の違いで、容易く争いが起こる。
新渡戸は、自分流の解釈を全人類に押し付けるつもりだったのか?

では、正しい道徳とは何かというと、「自分の好みを押し付けない」これだけである。
本当は、好みを持たないのが一番良い。
しかし、悪い国・・・例えば日本では、親が自分の好みを子供に押し付け、金、地位、権力、立場が上の者が、下の者にそれを押し付けている。
もし、あなたが好みというものを持たなくなれば・・少なくとも、見かけ上でも、それを持っていないようになれれば、全てはうまくいくだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
今日、毎日のように、機械学習・ディープラーニング型AIの本が出版され、本書もその1つになります。
本書が想定する読者は、次の通りです。
■数学が特別に出来る訳ではない。
■Pythonで自在にプログラミング出来る訳ではない。
■数学は苦手、あるいは、好きでない。
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