道徳や正義というものは、言葉だけで教えられるものではない。
言葉だけで、上から目線で偉そうに教えたら、それはもう正義ではなくなる。
権威ぶって道徳を語れば、いろいろ余計なものが混入し、本当の道徳と正反対のものになる。
それで、「人間には、本当は道徳や正義はいらないのだ」と、一見、賢そうなことを言う者もいるが、まさか、そんなことはあるまい。
そりゃ、『荘子』や『列子』、それに、『列子』を、基に書かれた中島敦の『名人伝』では、道徳を卑小なものと書いているようにも見える。
例えば、『名人伝』の主人公が、究極の弓の名人になり、神人の境地に至るが、その名人が、「我と彼との別、是と非の分を知らぬ」と言い、「全ては等しい」という悟りの境地を語るが、どっこい、我々凡人は、是と非の区別はつかないといけない(笑)。

キリスト教には、イエス・キリストという手本がいるが、これはなかなか高度過ぎて、時に理解不能に思えるのは、単に、ギリシャ語の福音書を訳す時に誤訳をしたという説もある。
それでも、ギリシャ神話や古事記、あるいは、コーランの神に比べれば、まともかもしれない。
まあ、古事記の中でも、大国主神(おおくにぬしのかみ)は善良でファンも多いかもしれないが、あまり賢くも強くもないように思える。
人によっては、宮本武蔵を尊敬し、彼が著した『五輪書』を指針にしているらしいが、「昭和の武蔵」と言われた空手家の大山倍達氏によれば、「武蔵は山師。勝てる相手としか戦わなかった」であるらしく、実は、あまり良い手本ではないかもしれない。
親や教師は反面教師にはなるが(笑)、まずは、反面ではなく、模範が欲しいところだ。

宮沢賢治は、『雨にもまけず』に、理想の人間像を描写し、そこに描かれた人物は、私も個人的には好きだが、あれでは生きられぬ。あれは、家がお金持ちで、生活の心配のなかった宮沢賢治ならではの理想だろう。

つまり、外部に本当の手本などいない。
手本は、心の内にあり・・・だ。
だが、心の奥の手本を無視し続けると、それとどんどん遠ざかる。
仏教では、その心の中にある真の手本を仏性と言い、それこそが仏であるのだと言う。
だが、現代人は、仏である内なる声を無視し、時には否定し、全く見えなくなってしまっている。
しかし、一休によると、「南無阿弥陀仏」の念仏は、内なる仏を引き出す力があるらしい。
その根拠は割と単純で、阿弥陀仏というのは、あちら(インド)の言葉で、無限の光のことで、つまり、内なる仏のことだ。
南無阿弥陀仏とは、その内なる仏を信用するといった意味で、別に、言葉は何でも良い。
それこそ「内なる英知を信じる」と言うのが、現代的な念仏だと思う。
だから、何でも好きな言葉で言えば良い。
そこに意識を向けていれば、説明が面倒なので省くが(出来なくはない)、あらゆる願いが叶うだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
「AIなんて難しいに決まっている。自分には関係ない」と思わないで下さい。今やAIは誰でも作れます。
この本では、Excelが使えるスキルがある人なら、ソニーのWindws8.1/10アプリNNCを使って、本物のAIを作れるようになることを目指しました。
回帰、勾配降下法、サポートベクタマシンなどという言葉は使いません。普段使う言葉で、面白いテーマを使って、楽しくAIを作れるようになることが目的です。
専門用語は、AI作れるようになってから必要に応じて勉強して下さい。
  
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