荘子が『荘子』(約2400年前の中国の古典)で書いた教えは、一言で言えば、「無為自然」だが、もっと普通に言えば、「全て、なりゆきにまかせろ」だと言って良いと思う。
荘子は、そうした結果、儲かるとも、モテるとも書いていないし、時には、わざと悲惨なことになるようなことも書いたが、少なくとも、安らぎは得られるし、実際は、かなり恵まれるようなこともほのめかしているのだと思う。
言い切ってしまえば、余計なことを考えたり行ったりせず、自然のなりゆきにまかせれば、そうでない場合より千倍も上手くいく。
だが、人間はいつも、下らないことを考え、しなくていことをして墓穴を掘るものだ。

では、なりゆきにまかせるとは、本当のところ、どういうことだろう?
山岸凉子さんの1980年から1984年の作品ながら、いまだ人気が高く、ロングセラーを続ける漫画『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』に、良い話がある。
都に干ばつが続いていた時、厩戸王子(うまやどのおうじ。後の聖徳太子)が祈祷を行い、見事、雨を降らせる。
ところが、いったん降り出した雨が止まず、今度は水害が起こり、厩戸王子の責任が問われ、朝廷は、大臣達を集合させた中に、厩戸王子を呼びつける。
厩戸王子は、なかなか現れず、天皇もしびれを切らすが、ようやく厩戸王子が現れた時、雨はぴたりと止んで陽が差し、大臣達は思わず厩戸王子にひれ伏す。
厩戸王子は何をしたのかというと、実は、何もしなかった。
自分の責任が問われ、マズい事態になっていることは理解しながら、では、何をしようかとか、どう申し開きをしようとか、全く、何も考えていなかったのだ。
それで、気が向いたところで、屋敷を出て朝廷に向かったのだが、空を見ると、心なしか明るくなりかけたように思ったので、到着と同時に止むことを期待したら、その通りになったのだった。
いうならば、厩戸王子が朝廷に着いた時に雨が止んだのは、全くの偶然である。
だが、そんなことは、よくあるのだ。
「こうなればいいなあ」と思い、少し期待はするが、それほど強く願う訳でもなく、特に何もせずにいたら、期待通りになってしまう。
そういったようにやれば、そうそう期待を裏切られることはない。大切なことは、渇望しないこと、よって、焦らないこと、余計なことはしないこと、だが、ごく自然なことだけはやること。
それが本当に出来た時、奇跡も起こる。
そんな経験がない・・・いや、最近ないと思っている人は、単に、見過ごしているだけで、結構ありふれたことなのだ。
厩戸王子は、法華経、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)まどを仏教の経典を取り寄せて読み、注釈書を書いている。
維摩経や勝鬘経のことは知らないが、法華経の、あの気が遠くなるほどスケールの大きな話を読んでいるうちに、一切の作為を捨ててしまえるに違いない。
そうすれば、気付かないうちに、奇跡体質になってしまうような気がする。
もちろん、『荘子』を読んでも良い。中国では、『荘子』が仏典の中に入れられてしまっていることもあるが、やはり、仏教と通じるところがあるのだろう。












当ブログオーナー、KayのAI書。
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全体が長過ぎると思われた場合、まず、Chapter.1の算数問題だけをやっても良いと思います。
それで、現代のAIの考え方について、見当が付くのではないかと思います。
Chapter.2、Chapter.3は、ある意味、遊びです。その遊びをAIと一緒にやることで、AIと仲良くなり、自然に、自分とAIで1ユニットになるコツを掴めるのではないかと期待しています。
最初は難しいと思っても、実は、簡単なことを書いています。むしろ、解り易くするために、多少、正統的でないやり方も採用しましたが、その点は本書内で注意しています。
  
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