コロナウイルスやインフルエンザウイルスで近しい人が亡くなったり、自分が発症して苦しい思いをしても、ウイルスに対して怒りや憎しみを持つことはないだろう。
家族が野獣に襲われて死んでも、野獣そのものを憎むのがおかしいのと同じだ。
ウイルスも、人間や野獣同様、生き残ろうとしているだけである。

人間は、野獣に対しては圧倒的な力を持った。しかし、その力の行使を誤り、膨大な種の、野獣を含む生物を絶滅させた。
だが、ウイルス相手には、そうはいかない。
唯一、人間は天然痘ウイルスは絶滅させることが出来たが、ひょっとしたら、そのせいで、もっと手強いウイルスが生まれたのかもしれない。
いずれにしろ、コロナウイルスを「叩き潰す」ことなど絶対に出来ない。

ところで、さきほど、人間を殺した野獣に対し、まともな人間は怒りや憎しみを持ったりはしないと書いた。
それが、人間の悪意や間違いで起こったのでない限り、あらゆる人間に対してもそうだろう。
だが、新型コロナウイルスの場合は違う。
ウイルス自体には怒りや憎しみはなくても、これほど多くの人々を死に至らしめた人間の浅知恵には、怒りや憎しみではないかもしれないが、そこに看過出来ない(見過ごせない)エラー(誤り)があると解るのである。
その看過し難いエラーとは、
「力のある者が、力のない者に強引に接近する」
「力のある者が、力のない者を強引に引っ張り寄せる」
ことである。
無論、人間は古来より、集落を作ることで、あまり強くないという肉体的不利を補って生き延びたが、本来は、集団の中でもそれぞれ独立していた。
しかし、集団の中で(特に密接した集まりという意味での)チームを作って密着し、チームに入れない者を痛めつけ消し去り、あるいは、他のチームを攻撃して滅ぼし、敵チームのメンバーを取り込んだり、排除したりした。
つまり、人間が堕落した根本的な原因は「群れる」ことだった。
新型コロナウイルスは、「群れる」人間への罰のようなものだ。
無論、ウイルスは、人間を選んで罰する訳ではないので、亡くなった方や苦しんだ方への責任は、群れる人類全体にある。

群れず、個人個人が尊重され、自由であってこそ、個人は全体に貢献出来る。
個人が全体に貢献出来ない理由は、余計な(過度に密着し合う)チームがあるからであることは明白であろう。
群れるチームの中では、個人はチームには貢献しても、そのチームは全体を害してしまうのである。
群れないゆるいつながり、弱い絆こそが、人類の未来を開く。
そのことが理解出来ないと、人類は終わってしまうし、終わるべきであると私は思う。













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