子供の時、やたら繰り返して読んだ小説や漫画、あるいは、子供向けの科学書などがあったかもしれない。
そして、なぜ子供にはそんなことが出来るのかを考えると、大人でも、新しいことを学ぶ可能性を高めることが出来る。

私で言えば、小学生の時、『ピノキオ』『みつばちマーヤの冒険』『怪傑ゾロ』を本当に繰り返し読んだもので、いまだ、本のページの映像を思い出すことがある。
だが、大人であれば、最初はいかに面白いと思っても、何度も読めば飽きるし、それどころか、2度目はもう面白くないということも少なくないかもしれない。
だが、こんな話がある。
映画評論家だった淀川長治さんは、アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』を400回以上見ていて、その度に、必ず涙を流すと言われていた。
これは、『太陽がいっぱい』で淀川さんが感じる世界観が、淀川さん自身のバックグラウンドと重なる部分があるからだと思う。
一方、子供の場合は、まだ確固としたバックグラウンドがないので、淀川さんとは事情が異なるように思うが、実は、案外似ていると思うのだ。
つまり、子供は、物語の世界観が、そのまま自分のバックグラウンドにすることが出来る・・・もっと易しい言い方をすれば、自分が、物語のヒーローやヒロインになり切れると言えば、多少は納得出来ると思う。
そして、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、子供というものは、シェイクスピアを読む時は、シェイクスピアになり切ってしまうのだと言う。
また別のところで、エマーソンは、「英雄の物語を読む時には、自分の物語を読んでいると思わなければならない」と述べてる。合わせて考えると、子供にとって、シェイクスピアになるということは、その作品の主人公であるハムレットやオフィーリアになることなのだと思う。
そして、その際に極めて重要なことを、「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツが述べている。
悲劇の主人公であるハムレットもリア王も陽気なのだと。
しかし、人々は、憂鬱で苦悩するハムレットやオフィーリアを演じているのだとも、イェイツは言う。
(イェイツの最晩年の詩の1つ『ラピス・ラズリ(瑠璃)』より)

確かに、子供がハムレットになる時は、決して「生きるべきか死ぬべきか」と悩むのではなく(そんな子供、見たくない)、正義感が強く、ハンサムでモテモテの貴族の青年としてのハムレットになるはずなのだ。
オフィーリアなる女の子も、美少女で、ハムレットに愛され、他の大勢の男の子をも虜にする美味しい役柄のオフィーリアになるはずだ。

淀川さんだって、克服し切れていなかったとはいえ、全て暗かったとは思えない。
格好がよく頭の切れる青年としてのトムに同一化する部分もあったと思うのだ。
そして、それは、自分の境遇がトムに似た部分もあるからこそ可能なのである。

まあ、ややこしい話はともかくとして、我々は、大人になっても、自分をヒーローやヒロインと見なさなければならないのだ。
それが出来ないことを「自分に見切りをつけた」と言うのではないだろうか?
自分に見切りをつけてしまっては、生き甲斐もなく、食欲、性欲にしか関心がなくなる。
だが、子供の感覚を思い出せば、やはり、子供の時のエネルギーを再び得て、人生は面白いものになる。
そして、それが出来る者は、ヒーローやヒロインのお話を何度でも見ること、読むことが出来るだろう。

私も、かつては、マーヤや怪傑ゾロだったが、それを忘れてしまっていた。
今でも、マーヤやゾロでなくてはならないのだ。
ところで私は、昨年9月頃からか、アニメ『まちカドまぞく』全12話を20回以上見ていて、今も見ている。
私は、魔法少女、千代田桃に深く共感するのだ。
千代田桃は、千代田桜の本当の妹ではないが、心の妹だった。
桃は、強く完璧な桜に憧れていたのだろう。
しかし、突然、桜は失踪し、後継者となった桃は、自分が桜に及ばないことを実感し、心を閉ざしている。
ところが、優子という愛する存在を得て、桃は変わり始める。
制作されるはずの第2シーズン以降には、なぜ桃がかくも優子に惹かれるのかも解るだろう。
もちろん、解釈は人それぞれであり、各自、好きな作品で、好きなヒーロー・ヒロインになり切り、力強く生きれば良いのである。
あなたは、真の意味で英雄なのである。













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