オリンピックも高校野球も、コロナウイルスに関係なく、無観客、テレビ中継なしで、選手と審判だけで行えないものか?
それが出来ないなら、やめてしまえば良い。
誰もいない場所で、誰にも邪魔されず、精神を研ぎ澄ましてライバルと競う・・・それでこそ、スポーツの本当の意義が実現するのではあるまいか?
判定が微妙な状況では、公平無私な審判に淡々と従い、審判には見えなかったが、どちからの選手には見えていれば、見えていた選手の申告に虚心に従う。
そのように行われるスポーツが、選手の人間性を高め、人類の向上に貢献する人間を作るのだと私は信じる。
もちろん、審判のミスもあるだろうし、選手が嘘を言うこともあるかもしれない。
しかし、それならそれで良いのである。
長い時が経って、かつて戦った相手が、
「実はあの時、君のスマッシュがアウトだと僕が言ったのは嘘だったのだ」
と言ったとしても、言われた方は、
「おや、そうだったのかい?」
で終りである。
勝敗も記録も、さしたるものではない。
このようであってこそ、スポーツは人間にとって貴いものであるのだ。

私が子供の時に読んだ、桑田次郎さんの『ミュータント伝』という漫画作品に、こんな話があった。
ある小惑星を宇宙飛行士が探索したさい、美しい石があったので、若い宇宙飛行士は、身体が不自由な妹のために、規則を破って、その石をこっそり持ち帰る。
だが、その石には、恐ろしいウイルスが居て、感染した人間は凶暴な怪物と化し、その際に、ウイルスが拡散される。
地球帰還後、そのことを突き止めた宇宙船の船長は、抜群の能力を持つ(小惑星探査チームの)隊長に、隊員全員と、隊員と接触した可能性のある人間全てを焼き殺すことを命じる。
隊長は、探査チームの者達を呼び集めると、説明している時間がなかったので、やむなく、隊員達を薬で眠らせ、建物ごと爆破し、全焼させる。
さらに、悪魔の石を持ち帰った若い隊員の、不遇なまだ小さい少女である妹を撃ち殺して溶岩の中に落とし、さらに、隊員達と接触した者達を次々に殺し、死体を燃やす。
そして、ついに、隊長は、凶悪犯罪者として警察に追い詰められ、銃撃戦の末、重症を負いながらも、自分の身体にガソリンをかけて自身の身体を焼く。
その隊長は、悪魔のごとき狂人として人類の歴史に残るが、本当は人類を滅亡から救った英雄なのである。
隊長にそれを命じた宇宙船の船長は、心で隊長の功績を讃えると、自分の部屋に仕掛けた爆弾のスイッチを押した。

イエスは、「人々の称賛を得たなら、もう褒賞を得たのだから、神からの褒賞はもらえない。だが、人々に知られずに善行を行えば、隠れたことを見ている神からの褒賞を得られる」と言った。
この隊長は、神の褒賞を得たと信じたいし、そう願う自分であれば信じられるような気がするのである。







  
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