人間は、最低限のレベルに達すれば、自分のことを話さなくなる。
たとえ老人になっても、自分の物語を熱を込めて語りたがるなら幼児である。

ジョセフ・マーフィーは、著書の中で、「原則的には自分のことは話さない」と述べているが、それは、「読者の役に立つなら」という条件付なら話すということだ。
しかし、ほとんどの人が自分について語ることは、誰の役にも立たない。
私の場合、信頼出来る超能力発現の話は自分のものしかないので、それは時々書くが、それ以外の自分の話は、やはり余計である。

自分のことを話して喜ばれるのは、若いイケメンや美少女くらいのものである。
これに関して、アニメの『甘城ブリリアントパーク』で端的に表現されていた場面がある。
3人のオジさん達が、自分の高校時代の思い出話を悠然と語り始めると、現役美少女女子高生、千斗いすず(せんといすず)が、彼女らしく無表情であるが、即座に、毅然と遠慮も容赦もなく、叩っ切るように話を終わらせる。
そして、「誰も興味ないわ」と冷たく言い放つか、完全に無視する。
厳しい・・・が、そんな当たり前のことに配慮しないオジさん達に全面的に非がある。

有償サービスの場でなら、サーバー(サービス提供者)は、お客様が自分のことを語るのを熱心に聴く振りはする。
また、紳士であれば、女性が自分のことを語るのを、マナーとして熱心に聴くだけでなく、もっと話すように促すこともあるが、その様子を傍から見れば、その女性は滑稽でしかない。

なぜ、自分のことを語ってはいけないのか?
1つは、上に挙げた美少女、千斗いすずが言ったように、「誰も興味がない」からで、興味がない話ほど退屈なものはないのは、朝礼の校長の話や、結婚式の新郎の上司の話が退屈なのと同じだ。
しかし、もう1つある。
それは、話すまでもなく、自分の正体はバレているからだ。
そして、その人の正体は、その人が話すことの1/5ならマシなのである。
その、1/5以下の正体が分かってる時、誰が、虚偽の5倍増しの話など聴きたいだろうか?
アメリカ最高の賢者エマーソンは、人間というのは、頭の上で自分の本当の中身を晒しているようなものだと言った。
それは、振る舞いや表情や雰囲気にもかなり現れるが、人間には元々、一言も会話を交わさずとも、相手を見抜いてしまう力があるのである。

普通の人は、どうしたって安い。
その安い自分の中身が、頭の上で晒されてしまっている。
そんな我々を、皆が見下すが、我々を見下す者達も、我々同様安いのである。
では、どうすれば良いかというと、過去の自分を捨ててしまうことである。
1秒前の自分も忘れ、1秒後の自分のことも考えない。
ただ、今、ここに生きる。
自分は1本の腰骨に過ぎず、自分は誰でもなく、来るものはそのまま映し、去れば、何の痕跡も残さない鏡だ。
そんな人間であれば畏怖され、周りが従う。
誰もが機嫌を取らざるを得ない赤ん坊のように。
それが極まると、本当に姿が消える。宇宙いっぱいに広がるからだ。
そうであれば、全てが意のままだ。
具体的なやり方は、簡単なものでは、ずっと「私」と頭の中で唱え続ける。
もう1つあり、空の星の1つのように、高いところに吹く風のように、ただ在ることだ。在る以外に何の意味も持たないことだ。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ