親鸞は仏教の中の浄土真宗の開祖とされているが、彼は僧というよりも、思想家として人類の歴史でも稀な人と思う。
釈迦やイエスの後の人が、彼らを開祖とする仏教やキリスト教を作っただけで、釈迦やイエス自体は思想家であったようにだ。
思想家と言っても、学術用語の思想家と言うのではなく、哲学者とでも精神指導者とでも、何と呼んでも構わない。
思想家とか哲学者と言ったら、すぐに、それらの教科書的な定義を持ち出さずはいられない学問馬鹿が多いと思うが、そんなことはどうでも良い。
人間は誰でも、どんな愚か者でも、思想家であり哲学者であるが、別に教祖と言っても構わないのである。

親鸞の何が凄いかというと、こんなことを言ったところだ。
「我々は何も善いことをしなくて良い。なぜなら、念仏以上の善はないからだ」
「我々はどんな悪いことをしても救われる。なぜなら、念仏の救いを妨げるような悪はないからだ」
だから、念仏さえ唱えていれば良いということになる。
そして、それは、私(親鸞)の考えではなく、お釈迦様の教えの根本だと言う。
釈迦がそんなことを教えたという証拠はないと思う。
しかし、釈迦の真の思想を理解すれば、その通りなのだと思う。
まあ、認めない人も多いとは思うが。

念仏さえ唱えていれば後は一切いらないというのが、本質で言えば釈迦の教えであり、イエスの教えである。
もちろん、イエスが「南無阿弥陀仏」と唱えよと言ったのではない。イエスの場合は、「第一の戒律は神を愛することだ」「全ての荷を私を通し、神に負わせよ」と言ったようである。
そして、「南無阿弥陀仏」というのは、仏様という絶対者に全てまかせよという意味であり、イエスの言うことも全く同じことなのだ。

親鸞も、阿弥陀如来という仏様が、仏像や仏画に描かれている姿をしたものとは思っておらず、仏様は形も色もない存在だということは理解していた。
意識を向ける対象として、仏像や仏画があるだけである。
仏像や仏画の作者達も、自分が本当に仏様を見た訳でないことは百も承知なので、それが自分の心の反映であることは解っていて、良い仏像や仏画であるほど、人々が意識を向ける対象になることを目的としているのだと思う。

確かに今の時代、何の「ひっかかり」もなく、「南無阿弥陀仏」と一心に唱えられる人は少ないと思う。
阿弥陀仏のインドでの元々の名前であるアミターバが無限の光という意味であるように、阿弥陀仏は宇宙の根源の力であり、それは人間の理解を超えているので名付けようがないので、仮に阿弥陀仏と呼んでいるだけである。
ジョセフ・マーフィーが、ある本で「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」と呼んでいたものと同じだ。
それが理解出来れば、我々でも「ひっかかり」なく「南無阿弥陀仏」と唱えることは出来るが、「南無阿弥陀仏」と言った途端、「あ、それ仏教のアレですね」「宗派は浄土宗ですか?浄土真宗ですか?」ということになるから面倒なのである。
宗派など、何の関係もないが、なかなかそれが通用しない。

阿弥陀如来、あるいは、仏様が、宇宙に偏在する無限の力であることを理解すれば、「南無阿弥陀仏」で良いのだが、世間では、この考え方を理解しない。
だが、「南無阿弥陀仏」は、最近、時々書いている「神様の奇跡が起こる」と「全く」同じなのである。
まあ、こう言えば、「そんな訳あるか!」とか「神と仏は違うぞ!」という、見事に教育されてしまった人達が多いので普段はそんなことは言わないが、日本人にとっては、「神」という言い方の方が、宇宙に偏在する力のイメージに近いと思う。
それは、日本では仏教に比べ、キリスト教の方がずっと少ないので、神という言葉についいた宗教色・宗教臭の方が、仏様についたそれより少ないからだ。
宗教的な馴染みがないから良いという、宗教家にとっては残念なことであるが、それだけ、多くの宗教家、宗教団体のレベルが低いということである。それは、優れた宗教家も認めるところではないかと思う。

我々は、「神様の奇跡が起こる」とずっと唱えていれば幸福になれる。
この言葉にも「ひっかかる」なら、「神は道なきところに道を作られる」を。「神」という言葉も駄目なら、「私は目の前で起きることを驚嘆の目で見る」と唱えると良い。
別の考え方もあろうが、本質的には、成功や幸福の根本原理はこれしかないのである。








  
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