岡田式静坐法で知られた岡田虎二郎(1872〜1920)は、1901年(明治34年)に30歳で単身渡米したそうだが、その20世紀になったばかりの、民間の海外旅行など、ほぼ皆無の時代に、財産があった訳でもなく、皿洗いをしながら、3年半に渡って欧米の書物を学んだという。
イギリスの作家、コリン・ウィルソン(1931~2013)が、学校を終えた15歳からは、肉体労働をしながら図書館で読書に励んだという話を思い出す。それも大変な苦労であるが、岡田虎二郎のは、それどころではなかったはずだ。

彼らには、大きな志があったのだが、岡田虎二郎が、その志を得て人生を変えたのは、小学4年生の時に、小学校の図書館で読んだ、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』であったようだ。
ところが、虎二郎が読んだのは、序文だけであったらしいが、実は、ルソーも、『エミール』は、序文のところだけを書くつもりが、あのような長い小説になってしまったようだ。
つまり、ある意味、『エミール』は、序文だけを読めば良く、虎二郎はそれをしたのだが、それで、わずか小学校4年生の虎二郎は、この高度な教育論に感銘を受けたのである。

ところで、本の中には、やはり、最初に重要なエッセンスが書かれているものが多い。
昨日、ベン・スイートランドの『私はできる』のKingle(電子書籍)の無償サンプルを読んだが、それでもう十分だと思った。むしろ、その後には余計なことが長々と書かれており、時間を無駄にしながら、せっかくの最初の良い部分を忘れてしまう・・・と言ったら悪いと思うが、まさにその通りだと思う。
1冊の本に書かれた、記憶すべき重要なことは、1~2行だという話もあるが、大抵の本では、特に、啓蒙書では、それが最初に来る場合が多い。
クラウド・ブリストルの『信念の魔術』などは、まさにそんな感じで、これは序文だけとは言わないが、最初の方には素晴らしいことが書かれているが、後に進むにつれて、余計な付けたしばかりが長々続いているように思えてならない。
言い換えれば、最初の方に、ブリストルが得た神の啓示のようなものが書かれ、後の方は、ブリストルの個人的考えが述べられているのである。
これはつまり、啓蒙書においては、1冊の本というのは、長過ぎるのだと思う。
もっとも、『正法眼蔵随聞記』(道元の短い講話の寄せ集め)などは、全章がそれぞれ1つのエッセンスであり、1冊読む価値があるが、それでも、道元の教え自体は、前書き程度の長さで書けるはずなのだ。
アリストテレスは難しいと言われるが、その中でも難解の部類に入ると思われる『魂について』を読んでみたが、確かに解らない。しかし、最初の方は面白いし、後の方はアリストテレスの個人的な考え・・・言ってしまえば偏見が書かれていると言ったら学者先生に怒られそうだが、私にはそうとしか思えない。

啓蒙書でも、重要なエッセンスが最初に書かれているとは限らないが、それでも言ってみれば、エッセンスは最初に書くものであり、そうでないなら、その本は良くないかもしれない。
ただ、小説の形で、思想や哲学を描いたものは別であり、また、小説であるのだから、著者は最後まで面白いことに気を配っているはずで、「クライマックス」という言葉があるように、最後の最後に重要なメッセージがある場合が多い。
H.G.ウェウズの『宇宙戦争』など、まさにその通りだ。
もっとも、ウェルズが最高の作家だと言うカート・ヴォネガットの傑作小説『母なる夜』は、最初に良いことが全部書かれているように思えるので面白い。

ただ、こう言うと「1冊買うのはもったいなくはないか」と思えるかもしれないが、それは全く逆で、エッセンスをしっかり掴んでこそ、本を買った意義があり、良い本はエッセンスに1冊分以上の価値があるのだ。
そして、エッセンスとは、著書が頭で考えたことではなく、著者が得た啓示であるはずなのだ。
人類屈指の偉人アリストテレスの著作の冒頭だけを読み、それで、アリストテレスの啓示的真理を掴めたら、これほど素晴らしいことはない。彼が頭で考えたことは、大半が間違っていることは、現代では分かっているが、内なる啓示は不滅なのであるから。
それを何度も読んで、覚えてしまえば良い。











  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ