インドや中国では、古代の賢者達がそう言ったからかもしれないが、人生は夢のようなものだという考え方があると思う。
日本でも、室町時代の歌謡集である閑吟集(かんぎんしゅう)に、「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ(人生は夢だ。深刻にならずただ狂え)」というものがあり、それはインドや中国の(仏教や道教の)影響もあるだろうが、やはり、人生は儚い夢と考えることもあるのだと思う。
私の場合は、誰かに教えられた訳でもないと思うのだが(実際は何かの影響はあったかもしれないが)、子供の時から、人生は芝居の舞台のようなものだと思っていた。
我々は皆、舞台で演技をする役者なのだが、人生が芝居であることを忘れてしまっている。
しかし、舞台での自分の役割が終わると・・・即ち、死ぬと、普通は、「ああ、これは芝居だった。つい真剣になって本物の世界だと思い込んでしまった」などと言うのだと「解っていた」。
芝居が終わった後の世界のことがよく分からないような気もするが、そうでないと芝居が面白くならないのだろう。

アイルランドの「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツも、やはり人生は芝居だと思っていたのかもしれない。
彼は、人々が自分が舞台の役者であることを忘れ、ハムレットやリア王のように悩んでいる様子を滑稽だという詩を書いている。
だが、優れた役者・・・即ち高度な人間は、人生が芝居であることを自覚し、「良い役者は(観客は泣かせても)自分が泣いたりしない」と詩の中で述べている。
映画『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の拳法の達人リーが師に、「良い闘いは少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったのも、何か面白いと思う。

いかに人生が芝居だとしても、盗みでもやったら、かなり嫌な役割になる・・・いや、実は、盗みをするのも、その後、悪い展開になるのも既定のシナリオであるのかもしれない。これもまた、古代の賢者達がよく言ったことである。

じゃあ、辛い役柄にある人は、どうすれば良いかと言うと、先程の閑吟集の歌のように、「真面目くさってないで、ただ狂え」ということになる。
また、やはり上で取り上げたイェイツは「リア王もハムレットも陽気なのだよ」と言う。つまり、悲劇を演じていても、醒めているばかりか、内心では演技を楽しんでいるのである。
芝居なんだから、隣の美人の奥さんにちょっかいを・・・出したら、まあ、ロクでもない展開が待っている。しかし、そんな役割が決まっているなら避けられない。
ラマナ・マハルシは、「働く運命なら仕事は避けられないが、働かない運命なら、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったらしい。
なら、ニートも運命なのであるから、ニートも、その親も、真面目くさって深刻にならず、陽気で・・・とは、なかなかいられない。普通の人は三流の役者なのだ。

もちろん、現代では、人生は芝居というより、バーチャル・ゲームであるという認識に進みつつある。
『ソードアート・オンライン』などを見て、隠しコマンドを探してみても良いかもしれない。
そういえば、昔にだって『ゲームの達人』なんてものがあったのだよ。








  
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