死んだ人について、「天国にいる」、「極楽浄土にいる」とか、スウェーデンボルグなどを読んでいたら、「霊界にいる」とか言ったりする。
そして、死者が現世の我々を見ていると思い、人によっては、「見守って下さい」とか思う。
一方で、死んだら、消滅してしまうか、最後の審判の時まで眠ると言う者もいる。
だがやはり、多くの人の関心は、死んだら、個別性・・・つまり、個の意識があるかどうかだろう。
私も、経験しているのではないから、はっきり言えないが、正解は分かると思っている。
それは、個別性はあるが、主体性はない・・・いや、別に、難しい言い方をしてお茶を濁すという、似非(えせ)霊能力者や、レベルの低い学者気取りのインテリブリっこの真似をしようというのではない。

人類というのは、神様の壮大な一人遊びだ。
我々だって、退屈なので、1人で2人以上の人間の役になって空想のストーリーを作って楽しむことがあるが、それの神様版がこの世だ。
子供の場合は、空想力が低いからではなく、あり過ぎるので、ストーリーを固定するために人形を必要とするが、大人の場合は、想像力貧困だし、そもそもみっともないので人形は使わない。
まあ、それはどうでも良いが、例えば、セーラー服の美少女と冴えないオタク男子が恋に落ちるストーリー(なんでや)を作るとする。
空想しているうちに、本当に2人がいると思うほどではないが、リアリティーを感じてくることはあるだろう。
私なら、ことごとにハッピーエンドにするのだが(この場合、一応、オタク男子が美少女をゲットとしておくが)、そうではなく、美少女が難病にかかり死ぬとする。
そして、オタク男子が、美少女は天国に行ったと思ったとして、美少女が本当に天国にいるかというと、それは、ストーリー上では、そういうことにしても構わない・・・程度のことである。
悲しみにくれるオタク男子も、あくまで、ストーリー上、存在するだけだ。
そして、我々自体、ストーリー上の登場人物で、ストーリーを作った者からすれば、死んだ後も、我々個々のことを覚えているので、その意味では個別性がある。
しかし、死んでしまえば、唯一存在する神様に戻るので、今の自分の小さな意識がなくなるからといって悲観する理由は何もない。

大体、こんなところで合っていると思う。
じゃあ、それはそれでいいから、今の自分が、ぱーっと金持ちになったり、偉くなったり、それこそ、セーラー服の美少女の彼女(可愛い彼女のイメージ古過ぎだが)が出来るなどになってくれればと思うかもしれない・・・いや、思う(笑)。
では、そのためにはどうすれば良いかというと、普通に考えるだけで(私の普通かもしれないが)、解決策は浮かぶ。
作られた個である「私」の意識を消せば、元の神様の意識を思いだせる(難しく言うと、フォーカスするとか言う)。
早い話が「ぼーっと」すれば良い。
ただ、コツがあって、目的をまずはっきりさせて、つまり、「金持ちになる」という目的を強く思い(イメージでも言葉でも良い)、それから、ぼーっとするのだ。
そして、特には、ストーリーを動かす神様のパワーを要しない、自分で出来る些末なことは自分でやっておくのである。でないと、ストーリーが進まない恐れがある。
小さいうちに、「自分のことは自分でする」と教えられた子は、必ず成功する。
教えられなかったとしても、「自分のことは自分でする」という決意を持てば、後は、ぼーっとするだけで、何でも出来るのである。
もっと大きな視点で言えば、スーフィー(イスラム神秘主義)の格言である、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ということである。
金持ちにしてくれるのは神様だが、ラクダをつなぐのは、神様ではなく自分である。








  
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